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9. ニューヨーク到着5日目 モール [大学入学とアメリカ生活]

生活の準備、モール、そして町のこと。

明日から学校で実力テストやレジストレーション(授業登録)がはじまるので、今日はこれからの生活に必要な生活雑貨や服を買いに行こうと思いました。シシリーに聞くと、家からバスで20分くらいのところに大きなモールがあるそうです。早速バスに乗りモールに行ってみました。

モールとは、日本でいうショッピングモールのことで、郊外の広大な土地をデベロッパーが開発し、そこにいくつかのデパートと数十店舗の専門店を誘致して形成した一大ショッピングゾーンです。2000年以降、日本でもこのような形態のショッピングモールが郊外にできつつあります。アメリカでは、20Kmおきくらいの感覚でこのモールが乱立しており、競争は激しいのです。よって、それぞれのモールは拡張を続け、新しい店を誘致して集客力を高めています。

私が初めて訪れたモールはNanuet Mallとよばれる巨大なショッピングセンターで、生活に必要なものはなんでも買えるようでした。そこにはGAPやベネトンなどの衣料店が並び、大きなフードコートも入っていました。メーシーズとシアーズというデパートも入っており、シアーズには車の修理工場や保険会社まで併設してありました。

そして、ここは街のバスターミナルも兼ねているようで、カウンティ(郡)内を走る路線バスは殆どの路線がこのモールに乗り入れていました。マンハッタンや近郊の都市に行く中距離バスも頻繁にでていました。ということは、マンハッタンに行く場合は、路線バスでこのモールまで来て乗り換えればよいということがわかりました。バスの待ち時間はモールで遊んでいればいいのです。

あまりの大きさに圧倒されたのですが、寒かったので上着やセーター、靴などを買いました。そして、大きなフードコートで見たこともないチャイニーズフードを食べました。あまりの美味しさに感動しました。

こんな楽しい場所が近くにあるならそれほど寂しくはないなあ、と思い、明るい気分でモールを後にしました。

実はこのNanuet Mallは、このあと拡張工事を行ったのですが、その後2001年にすぐ近くにさらに大きなモールが出現して、今は当時のような繁栄をみることはできません。

私の暮らし始めたこの街は、ニューヨーク州の南に位置し、ニュージャージー州との州境にあるロックランド郡という場所です。住所には現れないのですが、このあたりは郡によって教育や交通システムが異なります。日本で言うところの県みたいな感じでしょうか。ロックランド郡は、マンハッタンから北1時間ほどにあります。ハドソン川の西に位置し、ハドソン川を渡り東に行くとウェストチェスター郡という町があります。ここには日本企業から派遣された日本人家族がたくさん住んでいました。
ロックランドの商業と交通の中心はナニュエット・モールです。行政の中心はニューシティという町でした。とてものどかな町で、治安も良く住みやすい場所です。住んでいる人々は中産階級が多く、スプリング・バレー駅周辺が唯一の治安が悪い場所です。
あれから20年以上経過した2017年現在、ロックランドは、相変わらずのどかですが、ナニュエット・モールはなくなってしまいました。59号線沿いには、より多くの商店が出店しています。残念ながらPathmarkやRickelは倒産指定待ったようです。

1988/01/11
2007/03/07 rev.
2017.01.10 Rev.


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8. ニューヨーク到着4日目 ホームステイ [大学入学とアメリカ生活]

朝、1階からシシリーの大きな声がしました。どうやら私を呼んでいるようです。目をこすりながら階段をおりると、キッチンに置いてある小さなテレビを指差しました。その5インチくらいの小さな白黒テレビでは、昭和天皇の崩御に伴う式典らしきものが映し出されていました。どうやらシシリーは、リビングの大型テレビでは映らないマイナーなテレビ局をテューニングして見せてくれていたようでした。その映像はかなりノイズが入り、よく見えなかったのですが、何やら物々しい行事が行われているのが見て取れました。シシリーは天皇についてどう思うのか、悲しいかなどいろいろと質問をしてきたのですが、私は特にリアクションをしなかったです。天皇といわれても自分に近い人ではなく、戦争を体験した訳でもない。そして、日本を発つ前から体調がよろしくないという報道を何度も見ていたので、普通に受け入れました。しかし、歴史に詳しいシシリーは、私がもっと感情的になることを期待していたようです。例えば日本人としてなにやら変な行動をとるとか、泣くとかそういった類いのことです。ちょっと期待はずれだったシシリーは、私を気にしながらリチャードと共に仕事に出て行きました。

旦那さんは、朝6時頃家を出て行ったようで、朝の7時30分には家に私ひとりとなってしまいました。小さなテレビを見ていると、そのチャンネルは日本語放送だということがわかってきました。ひととおり日本での出来事が終わると、ニューヨークのローカルニュースを日本語で伝え始めたのです。"あぁ、日本から離れているニューヨークで日本語放送を見ることが出来るんだ!"これはとても嬉しい発見でした。最後まで番組を見ていると、どうやらこの放送はフジテレビのニューヨーク支局から放送されているUHF局だということがわかってきました。そして番組が終わるとスペイン語放送になってしまいました。ということは朝の7時から8時55分までの1時間55分だけ日本語で放送しているということです。この番組には、この日から5年間お世話になることになります。日本人の友達が少ないなか、唯一日本語を聞くことができ、日本の情報を知ることができる貴重な番組でした。ただ、私の住んでいる地区はマンハッタンからかなり離れているので電波の状況が悪く、画面はノイズがおおくて音声と併せて映像を認識しなければなりませんでした。でも、日本からの映像と日本語は、私の心を穏やかにしてくれました。

この日は、朝、前日に購入したリンゴをかじり、家のまわりを歩いてみることにしました。外は寒いのですが、日本を発ってから落ち着かない日々を送っていたので、久しぶりに安堵感でリラックスしていました。まず、昨日連れて行ってもらったPATHMARKというスーパーに行ってみました。車だと5分くらいですが歩くと20分以上ありました。シシリーに連れてきてもらったときはあまり時間をかけるのも申し訳なかったのでゆっくりと見ることが出来なかったので、今回は一通り見て歩こうと思い端から端まで商品をチェックして歩きました。あっという間に時間が経ち、隣にある日曜大工の店を合わせると2時間近く見てしまっていました。ここでは、今後の食料を買い込みました。早速日本では見たことのない食材を買ってみました。そして重い食料をいったん家の冷蔵庫にしまい、今度はSpring Valleyという街の中心に足を向けました。

Spring Valleyには駅がありました。New Jersey Transitの終点で、この駅から列車がNew JerseyのHobokenというところまで延びていることがわかりました。でも列車は日に数本しかなくあまり利用されていないようでした。駅のまわりにはアフリカンアメリカンのホームレス風の人が結構いて、皆私を見ていました。駅から続く商店街は半数が閉店しており、オープンしている店はどこも汚い感じで何を売っているのかよくわからない店構えでした。しばらく歩くと、なんとなく危険な雰囲気が漂ってきたので、引き返しました。冬とはいえままだ昼間です。でも明らかに普通の街ではなかったのです。後でこの話をすると、シシリーも学校のスタッフもSpring Valleyの駅周辺はとても危険なので行ってはいけないと注意されました。家のまわりは安全なのに道を数本隔てた駅は治安が悪い。アメリカは本当に不思議なところだなあと当時は思ったものです。

1988/01/10
2007/03/07 Rev.


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7. ニューヨーク到着3日目 ニュース! [大学入学とアメリカ生活]

朝起きて、ホテルに併設されているファミリーレストランに向かいました。実は、ニューヨーク1日目に宿泊したインターコンチネンタルホテルのオレンジジュースがとてもおいしかったので、かなり期待してしまいました。外は雪。山というより林が広がっており、その中に木漏れ日が溢れていました。肌を刺すような寒さを感じたのは、後でわかったのですがマイナス20度近くまで気温が下がっていたからです。でも自分の目に映る光景はとても暖かく、実際の気温程は寒さを感じていなかったように思います。

ファミリーレストランでは、いわゆるコンチネンタルブレックファーストを頼み、透き通るような薄いアメリカンコーヒーを飲みました。コーヒーは薄かったのですが、オレンジジュースはとてもおいしかったです。今後は毎日このおいしいジュースが飲めるんだと思いちょっとだけ嬉しかったです。そしてホテルのロビーに戻ると、新聞が届いていました。

「Emperor Dies」

あぁ、天皇が崩御したんだ。これで昭和が終わったんだなあ。

それ以降、情報が欲しくても手に入れることはできなませんでした。テレビをつけるとニュースの1コーナーで天皇崩御に触れるのですが、長くて5分程度で次のニュースに移ってしまうのです。きっと日本では、民放はCMを取りやめて大騒ぎなんだろうなあと思いつつ、私は、支度を始めました。今日はきっと昭和最後の日、そして新しい時代最初の日。私にとっても今日からが本当の意味での留学初日です。気を引き締め頑張らなければ。

Student Unionのスタッフは昼頃ホテルに迎えにきてくれました。そしてホストファミリーのもとへ向かったのです。
郡道59号線を東に進むと、この道がこのあたりの主要道だということがよくわかります。途中、道路脇に広がるショッピングセンター内のCitibankで口座を作りました。アメリカの銀行は日本と違い、お客さんがほとんどいないオフィスのようでした。応接セットのようなところに座らされ、学校の保証のもと口座を開く。父親から貰ったトラベラーズチェックはここで私の手を離れました。

しばらく走ると、道路脇には先程口座を開設したような銀行や巨大ショッピングセンター、そして付随する専門店が合わさった商店群が1Kmおきくらいにあることがわかってきました。きっと住人は車でこれら商店群に日々買い物にくるのでしょう。面白いのは商店群の構成はどこも巨大ショッピングセンター、銀行、小さなレストラン数件、日曜大工店と同じことでした。ただ入っているチェーン店がそれぞれ違います。私が暮らすことになるニューヨーク州ロックランド郡ではショッピングセンターはShopriteというチェーン店が一番勢いがあるようでした。銀行はBank of New Yorkの数がおおかったです。日曜大工はRickel。レストランは個人経営の中華料理店が多いというのもわかってきました。

さて、いよいよホストファミリーの家に近づいてきました。街の名前はSpring Valley。なんだかかわいい名前です。
South Cole Ave.とかかれた幅5mくらいの道に入ると、そこは新興住宅地でした。三角屋根のパステルカラーに塗られた同じような形の家々が出現しました。1軒自体はそれほど大きくなさそうです。場所によっては複数所帯が背中合わせでくっついているタウンハウスのような住宅もありました。私は、2世帯が繋がっている建物に連れて行かれました。

ドアを開けると、中からアフリカンアメリカンの女性が現れたのです。私は動揺したのをはっきりと覚えています。別に差別をする訳ではありませんが、私が勝手に想像していたのは若い白人夫婦と数人の子供達だったのです。それがかなり真っ黒な肌の女性が現れたことで相当驚いてしまったのです。家に入ると、旦那さんが立っていました。どう見ても身長は2mくらいあり体を鍛えているようで巨大でした。プロレスの選手のようでした。そして無口だったのです。大学のスタッフは軽く挨拶して帰ってしまいました。置き去りとなった私の表情は強張っていたことでしょう。シシリーと名乗った奥さんは、私を2階へと案内してくれました。2階にはベッドルームが2つとバス・トイレがあり、私は2階部分を自由に使っていいと言われました。これはとても嬉しかったです。とりあえず2階に行けば、そこは我がテリトリーなのです。2階にいれば安全だ!シシリーは私がこの家で初めて迎え入れた学生だということ、自分はブロンクス病院の医院長秘書だということ、旦那は元ボクシングの選手で今も体を鍛えているのだということなどを話してくれました。悪い人たちではないのはわかっていたのですが、どうしても体が動かず、その後は夕方になるまで自分の部屋に閉じこもってしまいました。シシリーは私のために時計付きラジオを購入してくれていました。ラジオをつけるとどの局も同じ音楽を繰り返し流していました。ポーラ・アブドゥルの「Straight Up」、フィル・コリンズの「Two Heart」、そしてボーイ ミーツ ガールの「Waiting For A Star To Fall」。私はこの曲を聞きながら荷物を整理し、一気に不安になった今後の生活を考えてみたのです。

夕方になるとシシリーが買い物に誘ってくれました。近くのショッピングセンターに買い物に行くと言う。シシリーの車はDATSUNのぼろぼろの2ドアクーペでした。しかもマニュアルで、ギアを変える毎に車がガタガタと揺れました。車で10分もかからない距離だったのですがやたらと長く感じました。

連れて行ってもらったMonseyという街のPathMarkというショッピングセンターは大きかったです。実は後で考えるとアメリカでは標準的な大きさなのですが、日本にはない巨大な面積に並べられた商品群には圧倒されました。ポップコーンは枕のように大きく、冷凍食品だけで数百種類並んでいる。いったいどれを買えば良いのかすら見当がつかない状況でした。
シシリーは果物がおいしいと説明してくれました。ワックスでピカピカに光っているリンゴを数個、歯磨き粉やティッシュペーパーなど生活用品をいくつかかったのを記憶しています。これからは学校の帰りにここで買い物をすればいいのか、次回からはここにある全てのものを食べてみよう、となんだか変な決意をしながら部屋に戻りました。

夜になるとなんだか騒がしくなってきました。この家庭には子供がいたのです。リチャードという小猿のような男の子は幼稚園に通っているようで、両親が共働きのため平日の帰宅は夜の7時くらいになるようです。

アメリカ東海岸では当たり前のようですが、間借り人はホストファミリーと一緒に食事をしないそうです。私はそんなルールも知らず、1階からくるピザのいい匂いを嗅ぎながら、リンゴを数個食べました。初日から夕食に誘われないということに何か別の意味があるのかかなり悩みましたが、この日はとりあえずおとなしくしていようという、消極的な考えがリンゴを齧るという行為に向かったのです。

夜、電話を借りて日本の実家に電話をしました。このときはかなりへこたれていて、声がかなり不安だったようです。両親に心配をかけてしまって申し訳ないのですが、そのときの自分は精神的に相当参っていたはずです。それまで、海外にも行ったことがなく、家族と幸せに暮らしてきたティーンエイジャーが、ひとりで寒いニューヨークの片田舎の知らない人の家でリンゴをかじっているのです。今思えば、気の小さい男だなあ、と滑稽に思いますが、そのときの自分はこの世の果てで生き残ったと思うくらい寂しかったでした。

1988/01/09
2006/03/07 Rev.


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6. ニューヨーク到着2日目 大学到着 [大学入学とアメリカ生活]

朝起きると、朝日が部屋の奥まで差し込んでいました。私は支度をしてホテルのレストランで朝食を食べました。オレンジジュースがとてもおいしかったのを記憶しています。そしてチェックアウトの準備をはじめました。

この日は、マンハッタンを発ち、入学するニューヨーク州立大学付属の2年制大学に向かう予定でした。私が入学する予定の大学はマンハッタンから車で1時間ちょっと北に行った小さな町にあると手紙には書いてありました。その街Suffernまでは、昨日空港からホテルまで送ってくれた父親の会社のニューヨーク支社の方が送ってくれることになっていました。

まずはホテルをチェックアウトします。1部屋149ドルでした。現在は同じホテルが500ドル以上しますので当時はまだ物価は今より安かったのです。ニューヨーク支社の方の車に乗り込み、大学を目指します。ホテルを出てマンハッタンを抜けました。映画で見たことのある景色に興奮しているとあっという間にジョージ・ワシントン・ブリッジを渡ります。ジョージ・ワシントン・ブリッジは、この後何度も渡ることになる橋です。橋からはマンハッタンの摩天楼が見えました。そして橋を渡るといきなり森になります。町や家屋が見えなくなり、Palisades Parkwayに入りました。この道はハドソン川の西側を北上する道で、まわりには深い森が広がっていました。マンハッタンを出たらいきなり森だなんて思ってもいなかったので、ちょっと驚きました。あれれ、こんな田舎に行くんだ。郊外の静かな高級住宅地を想像していた私は心配になってきました。

車は、1時間ちょっとで、山の中にある大学に到着。なんといったらいいのでしょう。長野県の軽井沢や蓼科のような感じの街にある小さな大学があったのです。想像とは違っていましたが、私は車を降り留学生の応対をしているStudent Unionに向かいました。ここで、父親の会社の人は帰っていきました。丁寧にお礼を言って見送ったものの、この後どうなることやら途方に暮れてしまいました。

Student Unionには担当のスタッフがいて、丁寧に応対してくれました。とりあえず学校は1週間後に始まるので、それまでは何もすることがないこと、学校がはじまるまでは、生活に慣れ銀行口座を開設することなど説明を受けました。そして今後の宿泊はホームステイ先を斡旋すると言われたのです。「ちょ、ちょっと待ってください。私は手紙でアパートを探してほしいとお願いしたはずです。」つたない英語で直訴すると、アパートは高いからやめなさい。という返事。ホームステイ先には明日連れて行くので、今日は近くのホテルに泊まるようにいわれ、ホテルまで送ってもらうことになりました。英語でなんとかアパートを探してほしいと訴えることが出来ず、悔しい思いをしましたが、自分の英語力のなさが悪いんだとおとなしく従ってしまったのが、後でとんでもないことになってしまうなんて!そのときはわからなかったのです。

ホテルの名前はWelesey's Inn。よくある田舎のモーテル。部屋の壁は薄く、ホテルにはFriendly'sというローカルなファミレスが併設されていました。ここで1泊することに。外は雪。氷点下の田舎町で心細くハンバーガーを食べました。昨日と比べると、ホテルも街も食事もランクがぐっと下がり、これが現実だと思い知らされました。そして見ず知らずのアメリカ人家庭に入り同居するという、気の小さい自分にはとても面倒な行事が明日やってくる。ホテルの部屋に帰るとテレビをつけました。どのチャンエネルも英語ばかり。早速ホームシックになりつつ、固いベッドに身を横たえたのでした。

1988/01/08
2006/3/7 Rev.


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5. ニューヨーク到着1日目 JFKに降り立つ [大学入学とアメリカ生活]

ユナイテッド航空 成田発ニューヨーク行きは、ジョンFケネディ国際空港に向け順調に飛行し約10時間のフライトを終え、あと2時間程でランディングする準備を始めていました。早朝、飛行機はハドソン川上流で降下を始め、地上の景色が見えてきました。窓から見えるアメリカ大陸は1月なので全体が凍り付き、真っ白でした。その白い大地には街はほとんどありませんが、道があったり、湖があるのが確認できました。よく見ると道には車が走っています。いったいここはどこだろう。上空からはどの辺りを飛んでいるのか見当がつきませんでしたが、凍り付く大地は気分を不安にさせました。ニューヨークに近づくにつれ少しずつ街の光が増えてきたように感じました。そして着陸直線には高いビル群が見え、大きな橋が迫り、日本では見たことのない美しい都会が出現したのです。あぁ、あれがマンハッタンなんだ。朝日に染まるマンハッタンが見えてから、それまでの不安は吹き飛び、早くこの摩天楼に降り立ちたいと強く強く思いました。

飛行機を降りると、そこは殺風景な廊下が延びていました。イミグレーションには長蛇の列。予備校の同級生2人と一緒にイミグレーションのインタビューを受けました。このとき驚いたことがあります。今まで何年もかけて勉強してきたはずの英語が全く役に立たないとわかったのです。イミグレーションの担当官の発音はとても早く、なまっていたのでした。ユナイテッドのフライトアテンダントの言っていることはわかったのに、ニューヨークに来たら全く違う!このときは慌てましたが、当時のイミグレーションはとてものんきなもので、F-1ビザを見て簡単に入国させてくれました。

ゲートをくぐると、そこには沢山の人種がお客さんや家族を迎えにきていました。名前の書かれたカードを持っているて、自分の目的の人を探していました。私の場合は、父親が勤める会社のニューヨーク支社のスタッフが出迎えにきてくださったのでした。とりあえず、生活を始めるまでは父親が細かなことをアレンジしてくれていたのです。これは精神的にとても助かりました。普通の学生なら、ここからいろいろな辛い局面に遭遇していたことでしょう。私はニューヨーク支社長の車でマンハッタンに向かいました。予備校の同級生もお願いして同乗させてもらったのは当然のことです。

車はマンハッタンに向かって走り始めました。摩天楼は光を浴びて黄金色に光ってたように記憶しています。そのとき、私はとても興奮していたと思います。ビル群が近づき、イーストリバーを越えミッドタウンにさしかかると、出国前に飛行機の小さな窓から一生懸命見ていた「ニューヨーク恋物語」に映っていた街が迫る。そして「恋に落ちて」でロバート・デニーロとメリル・ストリープが出会ったグランド・セントラル駅が見えたのです。やっと夢にまで見たニューヨークに着いたんだ。実感がわいてきたのは、この頃です。

ホテルはミッドタウンのインターコンチネンタル ホテル。父親のアレンジはここまで。今考えると、父親はずいぶん無理をしてくれたんだということがわかります。普段は高級ホテルなんて利用したことがない父親が取引先の三菱銀行にお願いして部屋を確保したそうです。今のように国際電話が安かったりインターネットで割引予約ができたり、日本に予約専用デスクがあったりするような時代ではありません。これが自分の息子を見知らぬ地に送る精一杯の気持ちだったのでしょう。

当時の私はそんなことは気にせず、まあまあ立派なホテルだなあ、くらいの認識でした。ただ、アメリカは怖いという先入観があったせいか、部屋から一歩もでなかったのでした。

部屋からは短い国際電話を2本かけました。1本は両親へ。もう1本は予備校の友人・アキラに。両親は無事ニューヨークについてほっとしていました。友人アキラには部屋からクライスラービルが見えるとか、飛行機が揺れたとかどうでもいい話をしたのを覚えてます。

この友人アキラとは、それから長い付き合いをすることになります。彼はこの日から数日後ロサンゼルスに経ち、デザイナーを目指しますが、西海岸では先が見えないということで、数年後ニューヨークに引っ越してくるのでした。短期間ですがルームメイトとしてよき親友となりました。そして、彼はその後ニューヨークに残り、現在は某有名ブランドのチーフデザイナーとして活躍しています。このブランドのデザイナーが日本人だということは殆ど知られていません。ニューヨークで共に苦労した友人がアメリカンドリームを実現させたことに私はとても誇りを持っています。

自宅と友達に電話をすると急に睡魔が襲ってきました。

ニューヨーク マンハッタンのインターコンチネンタルホテルで私は10時間以上熟睡しました。

88/01/07
2006/03/07rev.
2017/01/10 Rev.


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4. ニューヨークへ! [大学入学とアメリカ生活]

1月、私はニューヨークに向かうため成田空港に向かいました。このときは、今後の留学生活がいったいどうなるのか全く見当がつかなかったのを記憶しています。ものすごい不安と期待が入り交じり複雑な気持ちだったのを覚えています。

当時、成田空港は第一ターミナルしかありませんでした。南ウィングには出発2時間前から私を見送る人々がかなりの数集まっていました。両親、兄弟、友人達。一緒に留学を目指し頑張った予備校の仲間達。そこには別れ、希望、寂しさ、興奮、不安など様々な思いがありました。

私が登場するのはユナイテッド航空800便。午後4時成田空港発ニューヨークJFK空港行きには、予備校から私以外に2人乗ることになっていたので、2人を見送る人々を含めると数十人の見送りご一行様となりました。空港に来てくれた人たちにもそれぞれざまざまな思いがあったはずです。今の時代のようにスカイプやネットがない時代です。もしかしたらこれが最後になるかもしれないと思うほど引き裂かれる気持ちは強かったのです。

行く前に私に渡されたトラベラーズチェックは、確か100万円だったと思います。父親が三菱銀行で現金をチェックに替えるのに同行させられ、札束を見て、ちゃんと卒業しないと申し訳ないなあと思ったことを今でも鮮明に覚えています。

スーツケースは卒業まで持つように、と10万円のハードケースを母親が買ってくれました。ルイージ・コラーニがデザインしたダークブルーのスーツケースは、結局卒業後も壊れずに無事に日本に戻ってきました。このスーツケースが私の留学の相棒となるとは、このときは想像もしていませんでした。

このトラベラーズチェックと1つのスーツケースでユナイテッドのエコノミーにな乗り込むときは、さすがに寂しくなってきました。北ウィングの出国ゲートをくぐり、初めて作った大きな赤いパスポートに1個目の「出国」という印を押され、後ろを振り返ると、皆が手を振っていました。感傷的になりながら、笑顔で飛行機に乗りこむのが両親を心配させてはいけないと思う青年の精一杯の思いだったのでしょう。

今後、行ったことのないアメリカに渡り、大学に入学し、卒業するといういくつものハードルを全てクリアーして日本に戻ってくることがいかに難しいのか頭ではわかっていたつもりですが、飛行機に乗り込んだときはそれ以上の期待で現実を忘れていたような気がします。「とにかく行ってみないとどうしようもないさ」「なんとかなるさ」という考えが頭の中を巡っていました。

当然、飛行機の中では寝付くことができず、今後の開けているアメリカ生活を思いめぐらしていました。

ボーイング747は、大きな期待を揺らしながら太平洋を東に向かって進みます・・・


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