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39. ニューヨーク州 アップステート ロックランド郡 [ニューヨーク州立大学]

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今回は私がアメリカに到着し、初めて暮らした町と大学について記そうと思います。
ニューヨーク州
nystate.jpgニューヨークというとほとんどの人が高層ビルの立ち並ぶ摩天楼と自由の女神をイメージすると思います。しかし皆さんが思うニューヨークは、ニューヨーク州の一番南に位置するニューヨーク市のマンハッタンという小さな島なのです。ニューヨーク州はマンハッタン島から北、カナダ国境まで広がる広大な州です。車で移動すると、マンハッタンからカナダ国境までは6時間以上かかります。マンハッタンから北西、ナイアガラの滝までは9時間もかかるのです。その広大な土地のほとんどは山や森です。高層ビルや大都市はありません。
この広い広いニューヨーク州の州都はオールバニという町です。ちょうどニューヨーク州の真ん中にあります。オールバニは典型的なアメリカの田舎町です。州内には、この規模の大きめの町がいくつかありますが、それ以外はとにかく森林地帯です。私はこの事実にとても驚きました。摩天楼は一部であっても東京のように郊外には延々と住宅地が広がっていて、ところどころに中規模な衛星都市が点在するのだと思っていたからです。実は東京や大阪のような大きな都市はアメリカにはありません。大都市といわれるニューヨークやシカゴ、ボストンは、町を出ると急に森になってしまうのです。そんな予想とは大きく異なる山の中に連れてこられたのでした。ニューヨーク州は郡という地区に分かれています。ロックランド郡はニューヨークの州内で一番小さな郡です。

ロックランド郡
rockland2.jpg私がホームステイをすることになったのは、ニューヨーク州の森の中にあるロックランド郡という地区です。といってもマンハッタンからは車で1時間くらい北に行ったところですので、田舎の生活をしながら大都市にもアクセスできる立地です。郡の南はニュージャージー州です。ハドソン川を挟み、日本人が多く住むウェストチェスター郡と隣りあっています。
ロックランド郡の面積の北西地域は州立公園です。それほど高くない山々が連なっていて、湖や綺麗な清流が流れています。この一帯をベアーマウンテンと呼び住人にとっての憩いの場所となっています。夏は湖に作られたビーチで遊んだり、釣りをしたり、山歩きをします。冬はなだらかな斜面ですがスキーもできます。郡の東側はハドソン川です。この町は全体的に西が高く東が低いので、西の様々なところからハドソン川が見えます。特に夕方は水面に映る夕日がとてもきれいです。
ロックランド郡は、古くから人が住んでいたようですが、急速に発展したのはハドソン川にかかるタッパン・ジー・ブリッジが開通してからです。この橋を使うとマンハッタンまで車ですぐにアスセスできますし、富裕層の住むウェストチェスター郡に買い物に行ったり食事に行ったりできます。
私が住んだ家は、ロックランド郡の真ん中にあるスプリング・バレーという小さな町にありました。森の中に家が点在しているような典型的なアメリカ東海岸の田舎町です。家と家の間隔は適度にあいていて、大きな集合住宅はなく、コンドミニアムやタウンハウスといわれる高くても3階建の小規模な住宅がいくつかあるくらいです。日々の生活はこのスプリング・バレーで行います。スプリング・バレーにはルート59いう道が通っていました。片道1車線の道路なのですが、この道はロックランド郡を東西に貫くように走っている主要道でした。

メインストリート59号線   
rockland-county-new-york-map.jpgサファーンからスプリング・バレーを通りナイアックまで東西に走る59号線は、東西を車で1時間程で結ぶ郡のメインストリートです。西のサファーンはとても歴史のある街で古き良きアメリカの面影を残しています。ここには古くからある映画館が有名です。今でもきちんとメインテナンスが行われていて地元の住人に愛されています。サファーンからスプリング・バレーまで東に進むと、59号沿いには、小規模なショッピングセンターが2~3km毎に点在しています。ショッピングセンターは大きな駐車場を囲んでいくつかの専門店と食料品店が並んでいるタイプで、どこのショッピングセンターに行っても店名は異なれど店のラインナップはほとんど変わらないのです。私の家の近くにあったショッピングセンターは、大きな食料品店のPathmark、日曜大工用品店のRickel、バーガーキング、中華料理のテイクアウト、写真屋さん、リカーショップが並んでいました。さらに車で5分くらい走るとそこには食料品店のShoprite、日曜雑貨店のWALMART、銀行のCITIBANK、ピザのデリバリー店、カフェがありました。生活する上で、住人は自分の家に一番近いショッピングセンターに車で行き買い物をします。基本それだけで一通り買い物ができてしまうのです。食事は、このようなショッピングセンターにあるレストランを利用します。ほとんどがピザ屋、中華料理屋、イタリアン、インド料理などで、店の内装は簡素で価格は安いです。味は結構おいしく、どこも満足できました。

ナニュエット・モール
59号線をさらに東に進むと、当時ロックランド郡最大のモールがありました。ナニュエット・モールという大きなショッピングセンターは、巨大な駐車場の真ん中に建っていました。モールは2階建てで長い通路の両脇に100を超える小売店が並んでいます。通路の両端にはデパートがあります。ひとつはSEARS、もうひとつはMacy’sです。町にあるショッピングセンターのような食料品店はありません。ほとんどが衣料品店です。ナニュエット・モールはロックランド郡の交通の要にもなっています。郡内を走るバスやマンハッタンに向かうバス、空港に向かうバスなどがここに集まっています。郡内からここに来ればどこにでも行けるようになっていますし、バスを待つ間にモール内で買い物をしたり食事をしたりできます。買い物もできてバスの乗り換えポイントになっているので、いつも人で賑わっています。モールの周りには映画館やレストラン、食料品店、車の修理工場などが集まっていて、モール周辺は大きな商業地帯になっています。駐車場は大きいのですがキャパ不足になるのは時間の問題と思うほど、多くの近隣住民が集まってくるのでした。
車を持っていなかった頃の私は、時間がある時に行く場所と言ったらこのナニュエット・モールでした。大学からバスでここにきて買い物をしたりフードコートで食事をしたりしました。服もここで買いました。マンハッタンにン行く時は、ここで長距離バスに乗り換えました。

ナイアック
59号線をさらに東に進むと坂を下りハドソン川が見えてきます。ハドソン川沿いの町がナイアックです。ここはかつてニューヨーク市に住む住人の避暑地として栄えたそうです。現在も当時の面影を残していて、ナイアックのメインストリートは、古き良きアメリカのデザインでアンティークショップなどが並んでいます。

私が生活をはじめた町は、こんな場所です。アメリカの大都市圏にある典型的な郊外、ベッドタウンです。住人の多くはマンハッタンや周辺の企業に勤めている家庭です。子育て世代が多く、大きな家でのんびりと過ごしているようです。一人住まいは少ないので、家や賃貸アパートは1人用が少ないです。学生はほとんどがホームステイか大きな部屋をシェアしていました。
徒歩での生活はかなり厳しいので、車を保有するしかないのですが、金銭的に厳しい人はバスが命綱です。このあたりは冬になるとマイナス20度になることもあるので、徒歩で長距離を歩くと生命の危機となります。バス通学の頃は、バスを待つのが辛かったです。車を所有してからは、辛いこともなくなり、郡内は車であれば30分程度でどこにでもいけるので便利でした。




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33. 一時帰国 [ニューヨーク州立大学]

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ニューヨークに到着してから1年を過ごし、来た頃と同じ冬になりました。
予想していたよりも遥かに美しい春、日差しの強い夏、紅葉の深い秋を経験し、ニューヨークの自然の素晴らしさを知ることが出来ました。そして、アメリカ生活も来た当初は大変でしたが、1年経過すると安定しニューヨーク州立大学の授業もなんとかついて行けるようになりました。
そして、住居は紆余曲折ありながら、一人暮らしをはじめ、車も購入したので、とても楽しいニューヨーク留学生活となってきたのです。

ここまで辿り着けば、とりあえず留学はなんとかなりそうだと思えました。あとは、がんばって勉強して早く有名大学にトランスファーすることです。夏休みは、半分を授業に割り当て、予定の単位を取得できていたので、冬は休みをとって日本に一時帰国してみようかと思いました。

両親に提案したところ、了承を得たので早速チケットを入手しました。アメリカでは帰国便のチケットを日本よりも安く入手できる方法がありました。日本人向けテレビでは、さかんに帰国便のCMを放送していました。そこで、HISニューヨークという旅行代理店にお願いしてチケットを格安で購入しました。HISは、その後日本に進出してメジャーになった旅行代理店です。価格は1000ドル程度でした。航空会社はJALです。来るときは高くて購入できなかった日系航空会社です。これは嬉しかったです。

12月、3回目のセメスターを無事終了し成績を確認すると、直ぐ準備を始めました。来たときはスーツケース一個だったのですが、いろいろと買い物をして荷物が増えたことを実感しました。

12月20日。空港までは自分の車で向かい、車は父の会社のニューヨーク支社の方の家において貰うことになりました。空港では、JALのカウンターに向かいます。
ニューヨークに向かったときは、成田空港で出国手続きをしたときから海外に出てしまったという寂しさがありました。JFKに到着した時はとても寒く、遠くに来てしまったなあと思いました。
帰国便はどんな感じかというと、不思議なことに帰りのJALのエコノミーカウンターで日本人スタッフに対応された時、その瞬間から日本を感じました。まだニューヨークなのに日本にいるような心地よさがそこにはありました。
スーツケースを預け、出国ゲートを通りゲートへ向かいます。ここのフードコートには日本食のレストランまであります。周りは日本人観光客がたくさんいて日本語が飛び交っています。ニューヨークにもYaohan以外にこんなに日本を感じる場所があるんだなあと驚いてしまいました。
JALの機内は「和」のおもてなしです。当時はビジネスクラスに寿司カウンターがあり、サービスの凄さに驚きました。私はエコノミークラスでしたが十分に贅沢な雰囲気を満喫しました。

成田空港には高校時代の友人が買ったばかりの車(86)で迎えに来てくれていました。とても嬉しかったです。そして埼玉県にある自宅まで直行です。車に乗る前にしたことは、缶コーヒーを購入です。アメリカには缶入り飲料の文化がないので、あの日本独特の暖かい缶コーヒーを飲みたかったのです。今ではまずくて絶対に購入しない缶コーヒーですが、当時はあの味も日本を感じる重要アイテムだったのです。
車の中では、1年間アメリカで体験した様々なことを話しました。友達はよく理解できていないようでした。日本の大学に入っていれば苦労することのなかったはずなのに何でわざわざ辛い思いをしているんだろうと彼は思っていたようです。逆に日本の大学生活の殆どはバイトで、バイトで知り合った友人の話をされ驚きました。勉強は殆どしないようで、バイトでお金を稼いで遊ぶのが日本の大学生の標準的な生活なんだと聞かされました。そういう社会勉強ができるのは羨ましいですし、それでも大学を4年で卒業できる日本のシステムが不思議でもありました。日本を出てたった1年でこんなにも異なる環境で過ごすことになった高校の同級生との距離感を感じることになったのにも、ある思いがありました。

実家では、母親が豪華な食事を用意して待っていてくれました。いつも暖かく迎え入れてくれる家族のありがたさをこのとき初めて感じました。いままで一緒に住んでいるとこの暖かさは普通のことであまり気にしませんでしたが、1年間アメリカで生活を経験してきた私には、家族が輝いて見えました。

夜は、遅くまで1年間の話をして熟睡しました。

ニューヨークへ戻るのは1月20日です。3週間日本に滞在し年越しもできるのです。
外は寒いですが、家族、友人ととても暖かい時間を過ごすことができました。
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32. 3rd セメスター 後半 [ニューヨーク州立大学]

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関田が家に来てから、楽しいこともありましたが困った事態となっていきました。

関田は、ニューヨークに来てとても落ち着いてしまいました。前の大学でよほど辛い思いをしたのでしょう。
彼は私の家に居候状態です。大学が決まるまでは特にすることもなく、私よりも家にいました。

困ったことは、1)英語能力が落ちる。2)勉強時間がとれないことでした。
1)英語能力
やはり同居人が日本人だと、日本語を話してしまい、1年かけて苦労して覚えた英語力がどんどん落ちていきました。これは授業に出席するだけで分かるほどの落ち込みです。ヒアリング能力までもが落ち始めていったのです。
2)勉強時間
以前、数人と同居したとき感じたように、結局同居人がいると勉強時間が減っていくのでした。これも困りました。なるべく授業が終わったら大学の図書館で勉強するようにしましたが、夜は家に帰ります。家ではなかなか勉強できません。朝、早起きして図書館に行ったりしましたが、絶対的な勉強時間が減っていくのは明らかでした。

そこで、関田には申し訳ないのですが、引っ越しを促しました。とにかく一緒に家を探すのです。彼は腰が重く、なかなか行動を起こしません。後で考えると費用の問題があったようです。勢いで大学を辞めたのですが、引っ越し費用がなかったのです。私の家に居候している限りはお金がかかりません。それで3ヶ月も居座ってしまったのではないでしょうか。

結局、彼は私と同じ大学にトランスファーし、大学近くの家庭にホームステイすることになりました。ホームステイと言っても、同じ屋根の下に住むのではなく、家の庭にある大きな小屋の2階に住むのです。1階は車庫です。ですから、適度にプライベートが保たれました。

関田が引っ越していったあとは、やっと元の生活に戻れました。といっても、予備校時代の友人が同じ大学にいるのです。今までのように日本人コミュニティと関わりを持たないで頑張ってきた環境とは明らかに異なります。
今後は、関田とどうしてもコンタクトをとり続けることになるのです。そして、日本語を話せる友人が近くにいるのは、それなりに楽しいのです。
この矛盾する環境で、自分はうまく留学を続け、無事に卒業できるのか不安になってきました。

2017.01.11 Rev.


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31. 3rd セメスター 前半 [ニューヨーク州立大学]

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一人暮らしにも慣れ、車の運転も楽しくなり、夏休みを満喫し、アメリカ生活はすっかり楽しくなりました。
何故か言葉も使えるようになっていました。学校で勉強を頑張り、引っ越しなど街の人々とも交流していくうちに自然と英語が話せるようになったようです。

私の住んでいたニューヨーク州ロックランド郡では、街の木々が黄色く色づきはじめました。どうやらこのあたりは紅葉があるようです。風がちょっと冷たく感じる頃、秋セメスターが始まりました。学期前の英語学力試験をパスし、既に語学学校の生徒でもなくなっていたので、レギュラーのクラスを申し込みました。半年かかりましたが、ここからようやくアメリカの正規大学生として学校に認められたのです。
3回目のセメスターともなると、授業には、普通についていけるようになりました。
インターナショナル・ビジネス、マーケティングなどのクラスを受講しましたが、英語がわかるようになるとそれほど授業は苦になりませんでした。そして宿題もきちんと提出し、ミッドタームも良い成績で終えることが出来ました。本当に不思議ですが、今までの2セメスターの苦労はなんだったんだと思うくらい普通に授業について行けるのでした。

そんな中、友人から1本の電話が入りました。日本の留学予備校でクラスが一緒だった関田からです。
関田は、私より数日遅く日本を出国しました。そしてサウス・カロライナにある大学に入学したはずです。彼からは、今通っている大学では自分がダメになるからニューヨークにトランスファー(転校)したいというような話を聞かされました。そして、直ぐにでもニューヨークの大学にトランスファーしたいので、暫く私の家に泊めてくれないかという相談でした。

私は、自分の生活がやっと安定して授業も楽しくなってきたことろなので、今関田と同居すると、英語能力が落ちてしまうのではないかという不安がありました。しかし、友人が困っているのに見捨てるわけにはいけません。快諾すると、数日後に関田は自分のワーゲン・ゴルフに荷物を積んで現れました。

彼は、学校で人間関係に問題があったようです。それも日本人同士。私は日本人と基本的に付き合わない方針を貫いていてよかったなあと思いました。米国に来て日本人同士で喧嘩したり啀み合ったりするのは、本当に馬鹿げていると思います。彼の場合は、学校しかない田舎町で閉塞感が漂い、ついつい日本人とつるんでしまったそうです。

彼の車に積んであるのは、彼の全財産ではないようで、残りの彼の荷物をピックアップするため一緒にサウス・カロライナの学校にある彼のドーム(学生寮)につきあうことになりました。秋のセメスターは祝日がけっこうあったので、それを利用した1泊2日の旅行です。

二人でゴルフに乗り込み、ニューヨークを出発。ノーフォークまでは、この前行ったワシントンの旅と同じ道を走りました。もう来ないと思った道を1ヶ月後に走るとは夢にも思いませんでした。そして、ノース・カロライナからサウス・カロライナに入ります。このあたりは、走っても走っても森が続きます。この奥に本当に街があるのだろうか、と思うくらい途中は何もありませんでした。
数時間森を走ると、そこにようやく街が見えてきました。街と言ってもそこにあるのは、ゴーストタウンのようなとても寂しい集落でした。ここは、大学の城下町です。住んでいるのは学校に通う学生と関係者。そして残りは老人です。子供や30代、40代の働き盛りの住人にであうことは殆どありませんでした。ここは、完全に孤立している街なのです。
学校を訪ねると、それなりに大きな学校でした。でも皆太っているのです。ここでの楽しみは「食事」だけです。毎日ダイナーやチャイニーズで食事をすることだけが彼らの生き甲斐なんだそうです。これには驚きました。日本人の留学生は30人くらいいるのですが、昼ご飯の話題は"夕飯何を食べるか"なのだそうです。といっても夕飯に行ける店はチャイニーズかマクドナルドだそうで、話はほぼ毎日同じ事の繰り返しだそうです。30人の日本人留学生にもいくつか派閥があり、喧嘩したり恋愛対象を変えたりして生活していると関田は説明してくれました。こうなると動物園の猿山状態です。人間の尊厳などなく生き物としての本能でただ生活しているだけのように見えてきました。
寮は恐ろしいほど汚く、ビックリしました。特にトイレは扉がなく、学生は、便器に座りながら隣の人と話をしているのです。シャワー室の床には、なにやら黒い人工芝のようなものが敷いてあります。よく見るとそれは人の髪の毛です。シャワーの最中にバリカンなどで髪の毛を刈る学生がいるようで、その髪の毛が蓄積され芝生のように床全面に置かれているのです。学生はシャワー用のサンダルを持っていて、サンダルでシャワー室に入りシャワーを浴びていました。
この環境を見て、私は関田に早くニューヨークにトランスファーすべきだと力説していました。
我々は、関田の荷物をワーゲンに積め、近くのモーテルに1泊し、ニューヨークに帰ってきました。

関田は、直ぐに家を探すと言いつつ、結局2ヶ月も私の家に居候していました。

1989年秋
2017/01/11 Rev.

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28. 初夏の出来事 [ニューヨーク州立大学]

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2nd セメスターが終わる頃、大きな事件が起きました。

共同生活をしていた箱山と江藤と私の3人は、程良い距離を置いて過ごしていました。江藤と私は毎日一緒に学校に行き、途中から二人共に車の免許を取り車を購入したので、それぞれの車で通学していましたが、夜は一緒に食事をすることがおおかったです。
江藤は、生活費を賄うために箱山が働いていた日本食レストラン「Maiko」で時々働くようになっていました。9.11前は留学生は不法ながら結構日本食レストランで働いていたようです。
箱石と私はそれほど一緒にいませんでしたが、時々夜中に3人でマンハッタンのチャイナタウンまで車で遊びに行き、中華料理を食べたりしていました。

しかし、箱山と江藤は、何が原因かわかりませんが、喧嘩を始めたのです。そして殴り合いの末決裂しました。江藤は当時付き合っていた彼女の家に行き、箱石は家に帰ってこなくなりました。
こうなると、共同生活はできません。私も日本人との生活は本意ではなかったので、このタイミングで共同生活は解散とするなりました。結局3人での共同生活は3ヶ月で破綻したのです。

夏休みに入り、私はいくつか物件を探し引っ越すことにしました。いくつかの不動産店を回り不慣れな英語で物件を探しました。最終的にMonseyという街にアパートを見つけました。初めての一人暮らしのスタートです。アメリカに到着して3ヶ月間住んだホストファミリーの家も近かったです。ロックランド郡のメインストリートである59号線に近く、バスでも簡単に学校に行けます。家から歩いていける範囲には、ショッピングセンター、小さな専門店街(ここにはアート系の映画館もありました)、そしてSpring Valley High Schoolがあり、校庭でマラソンもできました。
私の住むValley View Gardenは、外観も洒落ていて、部屋は大きなリビングと大きな寝室がありました。この辺りではなかなかの物件です。

引っ越す直前の週末。家にいても誰もいなかったので、私は、別の友人と自分の車でボストンの手前にある「ケープコッド」に車で行ってみました。鯨見学をするためです。初めての長距離旅行です。ホエール・ウォッチングに参加したくて行ったのはいいのですが、海の上はとても寒く辛い観光となりました。そして祝日だったこともありホテルはどこも満室でした。結局ホテルがみつからず日帰りで家まで帰ってきたのです。朝の7時に出発し、寒い思いをしながら鯨を見て、家に着いたのは朝の3時です。この米国に来て初めての小旅行は散々なものでした。
以後、旅行に行く前にはきちんと計画を立て、ホテルはできるだけ予約するよう心がけたのでした。

夏休みは、生徒は3ヶ月間学校を休み旅行をしたり仕事をしたりします。大学は3ヶ月間閉鎖するのかと思っていたら、夏のプログラムがあることを知らされました。普段仕事をしている人が会社の夏休み期間に大学に戻ってきて勉強するのだそうです。夏の授業は夏休みの3ヶ月間を前半と後半に分け授業を行います。普通は3ヶ月かけて授業を終えるのですがら、半分の期間で授業が進むことになります。。通常のセメスターより期間が半分しかないため、1回の授業は長く、密度も進み方も早いのです。
私は夏休みの前半を単位取得に充てることにしました。と言っても早い授業についていくのには不安があたっため、体育を取りました。週に2回学校のテニスコートに集合し、ひたすらテニスをします。出席さえすれば単位が取れるのです。1回2時間程の参加で長いのですが、単位取得にはこれが一番向いていると思ったのです。

そして、いよいよ夏休みです!まず夏の授業の前の1週間の間で、ワシントンD.Cまで車で行く計画を立てました。そして、夏の授業が終わったらナイアガラの滝にも行こうという計画を立てました。勿論マンハッタンにも遊びに行きます。

3rdセメスターが始まるまでの1ヶ月半は、楽しい旅行です。

次回からこの旅行を詳しく記します。
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27. 2nd セメスター 後半 [ニューヨーク州立大学]

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このセメスターは、殆どのクラスをドロップしてしまいとても焦りました。と同時に、アメリカでの生活に馴染んできて車を入手したので、行動範囲が広がって、アメリカ生活を楽しみだした時期でもありました。

車では、ニュージャージー州エッジウォーターにある、できたてのYaohanに行くのが楽しみでした。Yaohanは、アメリカ東海岸に初進出で、日本の大きなスーパーマーケットのようでした。店内に入ると日本語のアナウンスがあり、店の中は日本の食料品で一杯でした。駐在員の家族はここで一回数百ドルもの買い物をしていました。店内にはマンハッタンを見渡せるフードコートがあり、そこには寿司や、ラーメン屋、和菓子やが軒を連ねていました。隣のビルには紀伊國屋書店があり、価格は高いものの、日本の本や雑誌が手に入りました。そう、ここはアメリカにある日本でした。当時は日本がバブルだったこともあり、週末になると北はボストン、南はワシントンDCから日本人が押し寄せ、Yaohan周辺は大渋滞となりました。今はYaohanはなくなってしまいましたが、懐かしい思い出です。

大学生にとって最大の楽しみは、モールです。私もモールキッズで、時間があればモールに行っていました。目的がなくてもモールに行くと嬉しいのです。家の近くにはNanuet Mallというモールがあり、バスで行っていましたが、車を手にするとNanuet Mallは、あまり大きくないことがわかってきました。近くで一番大きいのはニュージャージーにあるGarden State Mallでした。あまりに巨大で驚くほどでした。そして、高級住宅地にあるRiverside MallとParamus Parkという2つのモールが個人的にはお気に入りでした。Riverside Mallには、ブランド品が沢山入っていてウィンドゥショッピングには最適でした。paramus Parkには、ベイクドポテトの専門店があり良く食べました。そしてこれら巨大モールはルート17という道で繋がっています。Rt17沿いにはGapやTower Recordなどの路面店があり、それらを覗くのも楽しかったです。

さて学校ですが、このセメスターからまたまた日本人が沢山増えました。日本がバブルということもあり、日本の大学に進学できなかったお金持ちの子供達が比較的入りやすい州立大学に押し寄せてきたようです。
小さな州立大学に日本人は30人以上いたのではないでしょうか。このくらい増えてくると日本人の固まりは分裂を始めます。これはとても醜い争いです。ある集団が別の集団を攻撃したり、無視したり....。20歳前後の若者達はくっついたり離れたり....。
私は、これらの行動を客観的に見て距離を思いっきり置くようになっていきました。もはや、話をする価値もないとまで思いました。彼らの目的は何なのでしょう?きっと日本の大学に入れず、格好悪いので米国にでも行ってこいと親に言われて来たのでしょう。学校はサボるし、語学学校の下のレベルのクラスに固まっているようです。それでいてカフェで大きな日本語で話しているのです。私は日本人としてとても恥ずかしく思いました。今となっては、人それぞれ様々な価値観を持っていることに理解があり、そういう学生を見ても、別に何とも思いませんが、当時の私はアメリカ人学生が馬鹿にしているのを聞く度にイライラしていました。

そういう私も、自分がクラスをドロップしており、最上級レベルだとしても語学学校の一員であったので、実は偉そうなことはいえない立場だったのです。
私は、とにかく日本人と距離を置くため英語を頑張りました。そしてやっと語学学校をクリアーし、正規の大学生として授業を受ける権利を得ることに成功しました。

振り返ると、2ndセメスターは、アメリカ生活に順応し、語学学校を卒業するためにだけ過ごした3ヶ月でした。

取りこぼしたクラスは夏休みに取り返すことになります。
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26. 2nd セメスター 始まる [ニューヨーク州立大学]

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4月になり、ニューヨークは日ごとに暖かくなってきました。私は新しい家からバスを2回乗り継いで大学まで通うようになりました。
でも、とても寒い日もありバス通学は結構面倒でした。バスを乗り換えるのはNanuet mallという大きなモールです。朝は営業していませんが、帰りは営業しているので週に1回はモールに寄ってウィンドウ・ショッピングをしたり、フードコートで夕食を買ったりしました。これはこれでささやかな楽しみでした。

暫くすると、私は免許を取得し遂に車を購入することができました。免許が手には入る前から、どんな車を購入すべきかリサーチを繰り返していました。車購入にはいくつかのパターンがあります。
1)とても安い古い車を個人売買する
2)とても安い古い車を業者から購入する
3)ちょっと高い中古車を個人売買する
4)ちょっと高い中古車を業者から購入する
5)新車を業者から購入する

1→5に従い、安全性は高まります。そして価格は高くなります。おおくの学生は1か2を選択します。しかし、車は故障すると、とても面倒で場合によってはアメリカの場合死に直結します。
私は、両親と相談し、4を選択しました。結局日本車の新古車をディーラーから購入するというかなり高い買い物となりました。私が選んだのはHondaのPrelude。走行距離は3000マイル。価格は200万円くらいだったと思います。親からもらったアメックスで購入し、車は翌日ディーラーに取りに行きました。

この選択は、今となっては留学生活での「正しい選択」のひとつです。結局5年乗り続け、走行距離は10000マイルを超えましたが、故障も事故もなく、安全に生活できました。そして、なんとこの車は60万円で売れたのです。アメリカ留学の相棒としてプレリュードは十分すぎるほど私を助け、生活を充実させ、行動範囲を広げることが出来ました。

車を手に入れてからの生活は一変しました。毎朝車で学校に通うようになると通学時間は片道20分です。バスでは1時間30分かかっていましたし、バスに乗り遅れることを考慮して学校には早めに到着していたので、朝起きる時間が大幅に遅くなりました。

帰りは、車でいろいろなところに行きました。今まで知らなかったモール、時にはニュージャージーにオープンしたYaohanまでもいくことができました。行動範囲が一気に広がることで、自分が住んでいる街の構造や、住んでいる場所半径100Kmくらいが自分のテリトリーとなりました。

学校は、語学学校1クラス、Sociology 101、Accounting 101、Marketing 101、Management 101を受講しました。まずAccountingは、はじめの3回でついて行けなくなりました。あまりに難しすぎるのです。そこで早めにドロップし、テレコースという自主勉強に切り替えました。このテレコースについては別の機会にお話しします。マーケティングは、クラスに不良君達が在籍し、クラスに出席するといつも下らないことを私に言ってきました。これが結構苦痛でした。嫌がらせとかいじめではないのですが、毎回余計な話をしてくるのです。これには参りました。彼らは友達だと思っているようですが、私は授業に着いていくのが大変なのです。結局このクラスもミッドターム直前に脱落してしまいます。マネージメントは、先生の話していることがさっぱりわかりませんでした。毎回、当日のNew York Timesのトップ記事を例に30分間ディスカッションするのですが、こればかりは予習が出来ずとても困りました。結局このままだと好成績が期待できずドロップ。このセメスターは結局2クラスしか受講できないというとてもまずい状況に追い込まれてしまいました。

でも、車を手に入れたことでなんだかアメリカ生活が楽しくなっていました。そして、日本人と一緒に生活していたので毎日日本語を話し、ストレスもありません。箱山は仕事帰りに日本レストランから日本食のお土産を持ってきます。まるで日本にいるようでアメリカ生活が送れるのです。こんな楽しい日々はありません。

ある夜、私は冷静に考えました。これでいいのだろうか。これで良いはずはありません。まずは、予定通り大学を卒業すること、日本人とはあまり付き合わないこと、日本文化に接触しないこと、など自分を律し態勢をを立て直すべきだと強く言い聞かせました。もし、この楽しい生活を受け入れてしまうとおおくの日本人留学生のように米国に来ただけになってしまうのです。私には大学を卒業し、希望の仕事をするという目的があります。

そこで、このセメスターは自分なりに計画を立て直しました。まず、2つの授業はきちんと受講しAを取る。そして語学学校は卒業し正規の学生になる。Accountingは、テレコースで単位を取る。空いている時間は、車で知らない場所を回り、アメリカ生活に慣れる。これ以上日本人と交流はしない。早めに共同生活を解消する。なるべく映画を見る.....

さて、だんだん暖かくなり街には花が咲き、夏休みに向かって開放感が満ちあふれる20代の若者は、誘惑に打ち勝ち、留学性生活を軌道に乗せることができるのでしょうか。

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25. 引っ越し [ニューヨーク州立大学]

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1st セメスターが終了し、1週間ほどスプリング・ブレイクという休みがありました。私は車の免許を取るため、免許センターにいって手続きをしたり、教習所に通ったりしていました。マンハッタンで初めて字幕なしの映画を見たのもこのころです。映画は「ミシシッピー・バーニング」でした。初めてのブロードウェイ・ミュージカルをウィンターガーデンで見ました。演目は「キャッツ」でした。これはストーリーがさっぱりわかりませんでした。

そんな時、大学にいる日本人から電話がかかってきました。ちょっと食事に行かないかというのです。箱山は、ボロボロの車を持っていて、バス停でバスを待っている私を見つけると、車で送ってくれる気の良い男でした。ただ勉強は全くできないようで、語学学校では一番下のクラスにいて、大学の授業は受けられませんでした。そんな感じが数年続いているようで、大学では彼をあまり見かけませんでした。

彼は、New Cityに良い物件があるから、一緒に住みたいということを言い出しました。私は日本人とはあまり付き合わないようにしていましたが、どうしても家を見に行こうと誘われたので、断ることが出来ずNew Cityという街に行ってみました。
そこは、とても綺麗で高級住宅地でした。近くにはゴルフ場やテニスコートがあり、ニューヨーク・シティまで直通のバスが沢山出ていました。要はマンハッタンで働くエクゼクティブたちのベッドタウンなのです。あまりに洗練された町並みに驚き、こんな街に住んでみたいと思いました。そして空いているという部屋は巨大でした。
私はすっかり心を奪われ、New Cityに住みたくなってしまいました。その物件はタウンハウスと呼ばれる建物で、3階建ての長屋です。家賃は1ヶ月1000ドルでした。箱山は、200ドルしかだけないので1階の下にある半地下に住むと言うのです。私は残りの800ドルを負担することになり、1階のリビングと2階、3階が使えるのですが、800も支払う余裕はありませんでした。
すると箱山は、もうひとり探してくると言い出しました。結局、私と同じタイミングで大学に入り一生懸命勉強している江藤君を連れてきたのです。江藤君はとてもまじめで、学力は私と同じくらいでした。彼となら一緒に勉強ががんばれそうです。そこで、この3人で、New Cityでの共同生活をすることにしたのです。

まず、ホストファミリーにこのことを告げました。シシリーはとてもショックだったようで、落ち込んでしまいました。そして大学の留学生課に長い電話を掛けていました。結局、気持ちよく私を送り出すことになりました。たった3ヶ月間でしたが、私を支えてくれた家族に感謝しました。そして彼らとは。その後とても長いつきあいをすることになります。

引っ越しは簡単でした。スーツケース1つだからです。日本を発った時から服が数枚増えているだけでした。私はタウンハウスの3階に住むことになりました。2階の江藤とバス・トイレは共用です。お互い鑑賞しすぎないように気をつけ、友人をむやみに呼ばないことを約束しました。

大学へは、バスを乗り換えなければならない程距離が離れてしまいましたが、2nd セメスターは、毎朝江藤と二人でバスを乗り継ぎ学校へと通いました。二人だと日本語が話せて楽しかったです。箱山は、学校にはますます行かなくなり、家から直ぐの日本食レストラン「Maiko」で働き始めました。彼は、完全に不法滞在者の道を歩んでいました。

1st セメスターと2nd セメスターの間には、こんな変化がありました。
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24. 1st セメスター Final Exam. [ニューヨーク州立大学]

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米国に来て初めての生活、そして初めての大学、初めての授業・・・一度に沢山の経験をしました。日本では、両親に大切に育てられ、1人で旅行などしたこともない20才前の青年が体験するにはあまりにもおおすぎる情報量、そして処理能力に、後半はかなり疲れていました。

生活自体は慣れてきて、ホストファミリーとも大分仲良くなれてきたので、それだけは良かったのですが、授業、特にBusiness 101は、とても大変でした。実は勉強自体はそれほどでもなかったのですが、日本人がアメリカ人に混じって授業を受けるストレス、そして指される恐怖に、精神的な不安が重なり、とても辛かったのです。他の授業は、外国人のためのクラスだったため、先生はとてもわかりやすい英語で話してくれました。しかしレッカー教授は、もの凄い勢いで授業を進めるのです。途中で何度もドロップアウトを考えました。この学校の決まりでは、ミッドタームの成績が悪い場合は、後半が始まる頃までに、自主的にクラスを去る権利が与えられていました。この時期までに自己申告すると、はじめからクラスを取っていなかったことになり、成績には履歴が残らないのです。その代わり、このタイミングを逃すと、成績はどんなに悪くても記録に残ってしまうのです。

正に「Point of No Return」戻れない日があるのです。ラッキーなことにミッドターム試験の成績が意外と良かった私は、このクラスを最期までやり遂げようと決意しました。ファイナル試験で、ある程度の成績を取れば、良い記録が残せると思いました。

しかし、世の中そんなに甘いものではありません。ミッドタームを過ぎると、一気に内容が難しくなっていきました。そして、先生は下を向いている私を容赦なく指すのです。時には先生の質問内容がさっぱりわかりませんでした。でももう後戻りはできません。しかもファイナル試験で悪い点を取ると、それがその後の学生生活を引っ張るのです。これはなんとしてでも食い止めなければいけません。

この後、3年半の学生生活を苦しい状況に追い込みたくないですし、初めてのセメスターが一番簡単なはずですから、ここでC以下を取るわけにはいかないのです。

他のクラスは、なんとかなりそうです。私は、毎日Business 101の勉強ばかりしました。そして、ファイナル・エクザムが近づいてきたのです。

テストは、さっぱりしたものです。時間になったら試験会場に行き、時間内にテストを受けるのです。結果は、教授の部屋の前に1週間後に張り出されます。

私は、宿題もきちんと提出し、授業には必ず出席し、予習・復習も欠かせませんでした。自分なりには頑張ったつもりですが、アメリカの大学は、そんなことは考慮してくれません。テスト結果が全てなのです。

結果、私はテストで高得点を取りB+でBusiness101を終了しました。とりあえずホッとしましたが、有名大学にトランスファー(転校)する場合は、州立大学で全ての教科の平均をA-以上にキープしないといけないので、もう少し頑張るべきでした。でも他の教科はAかA+だったので、とりあえず、初めてのセメスターは満足できる結果となりました。

セメスターが終わると、早速4月からのセメスターが始まります。私にとっての2nd セメスターです。
学校でできた友達に聞いたり、Student Unionに行ったりして、どんな教科を取ればいいのか調べました。

そして、英語のテストで語学学校を卒業するという目的のため、改めて正規の生徒になるための英語能力試験を受けました。試験に合格すれば、Full Timeで大学の生徒となり授業が自由に受けられるようになります。私にとっては早くFull Time Studentになり一刻も早く、この大学を卒業したかったのです。何故なら親に高い授業料を払わせているからです。早く卒業することが私に出来る唯一の親孝行でした。

しかし・・・・・
残念ながら、英語の試験はパスできませんでした。来セメスターも週に3時間程、留学生用の語学学校に通わねばなりませんでした。
英語力は一生私を苦しめていますが、これが真の英語地獄の始まりだったような気がしています・・・

2017.01.11 Rev.

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23. 1st セメスター後半 [ニューヨーク州立大学]

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なんとかミッドターム(中間試験)を終え、なんとか各教科をパスすると、ちょっとホッとしてきました。授業も受けるコツを掴み、前半ほど辛いとは思わなくなってきました。あとは授業を休まずきっちりと内容を理解し、ファイナル(期末試験)を受ければなんとかなるのでは、と思い始める余裕ができてきました。

当時、私は平日、以下のようなパターンで生活しました。
朝は7:00起床です。既にホストファミリーは、支度をして家を出る頃です。朝は階下でバタバタと準備をする音が聞こえてくるので目が覚めてしまいます。お母さんのシシリーは、家を出るとき、大きな声で「Bye!」と叫んでくれます。
その声を聞き、私は2階から降り、キッチンにあるTVをつけます。リビングには大きなテレビがあるのですが、お父さんが大事にしているので、私は触れませんでした。そして大きなテレビにはケーブルテレビが接続されていて使い方がよくわからなかったのです。キッチンのTVは、とても原始的な白黒テレビで、チャンネルはダイヤルでチューニングするタイプのものでした。このダイヤルを回すと、かなりノイズが入りますが、日本の番組を視聴できました。当時フジテレビのニューヨーク支局であるFCIが民法のチャンネルを2時間借りて放送している日本人向けのニュースです。私には日本の情報は、この雑音の中のアナウンサーの声しかありませんでした。だから、毎日必死になってこのニュースを聞いたのです。
ニュースを聞きながらコーヒーを入れ(といってもインスタントです)、支度をして家を出ます。

家から数分歩くと、ルート59というこのロックランド郡のメインストリートにでます。ここで待っていると大学行きのバスがやってくるのです。朝は1時間に2本、昼間は1時間に1本という本数の少なさです。1本乗り過ごすと大変なことになるので、いつも早めに学校に着くよう家を出ていました。
初めてのセメスターは1月から3月です。外はマイナス20度にもなる極寒の世界です。できるだけバス待ちの時間を短くしたいのですが、乗り遅れるのがいやなので、結果10分以上も寒い道路沿いで立っているしかありません。
バスを利用するのは、低所得者か学生くらいです。殆どのアメリカ人は車を所有しており、毎日バスに乗ると、なんとなく品がない感じでちょっと寂しかったです。でも1週間もすれば、バスを楽しむようになりました。

学校にはバスで20分程度です。学校に着くと、授業には早すぎるのでカフェに行き朝食を食べました。ここのカフェは、何故かベーグルがとても美味しく、今でもあのベーグルが世界一だと思っています。この学校の学生の8割がユダヤ人だから、きっと本物のベーグルだったのでしょう。そんなベーグルも当時は日本にはなく、初めは固いドーナッツだと思っていました。私のお気に入りは、コーンビーフとジャガイモの角切りを炒めたハッシュド・ビーフという食べ物、そしてニューイングランド・クラム・チャウダーです。これがメニューにある日は、必ず食べていました。

授業の時間になると、生徒はクラスルームに集まります。私も授業を受けます。1日に2個か3個の授業を受けたら帰るのですが、バスを待つ間は、図書館で復習することがおおかったです。朝と昼は沢山の学生がカフェにいるのですが、夕方は学校自体が閑散としてしまい、カフェに行っても生徒が数人いるくらいでした。
殆どの学生が車で通学しているので、授業が終わると車に乗り帰ってしまうのです。そして殆どの学生が学校の後、働いていました。私はF-1ビザ(留学生用)で、米国に来ているので働くことは許されず、毎日夕方は復習をすることにしていたというわけです。

バスの時間になると、バスに乗り家に帰ります。だいたい17時頃には家に着くので、それから近くのスーパーに歩いて買い物に行き、ひとりで夕食を作ります。スーパーはPathmarkというチェーン店で、とにかく大きなショッピングセンターでした。そこで、いろいろな食材を買って家で食べました。毎日、夕食は楽しみでした。

夜は、自分の部屋で明日の予習です。この予習をしないと、授業の内容がさっぱりわかりません。だから、辞書をひきながら、教科書に書いてある内容を全て把握しておかないといけないのです。

こうして平日は終わっていきました。

当時は、授業中、先生の言っていることが聞き取れなかったので、ずっと神経を集中するため、寝る頃にはとても疲れていました。だから毎晩とても良く眠れました。

週末は、学校はお休みです。
家にいても特にすることはないので、バスを乗り継ぎモールに遊びに行きました。近くにはNanuet Mallというとんでもなく大きなモールがあり、そこに行くのがとても楽しみでした。(でも後になってわかるのですが、このモールはそれほど大きくないのでした。)
モールには、衣料品からフードコートまで揃っていて、必要なものは何でも揃うところでした。私はベネトンの服を買い、ハンバーガーや大きなコーラを飲んでアメリカ生活を満喫しているつもりでした。
今となっては、可愛らしいお話しですが、当時はこれでも精一杯生きていたのでした。

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