ロックランド郡
ナニュエット・モール
私が生活をはじめた町は、こんな場所です。アメリカの大都市圏にある典型的な郊外、ベッドタウンです。住人の多くはマンハッタンや周辺の企業に勤めている家庭です。子育て世代が多く、大きな家でのんびりと過ごしているようです。一人住まいは少ないので、家や賃貸アパートは1人用が少ないです。学生はほとんどがホームステイか大きな部屋をシェアしていました。
今回から2回は、時間を飛び越して就職活動のお話です。
なんとか正規留学を終了できそうな気配を感じていた時の今後の人生について考える転機となった出来事です・・・
学校から帰ると、自宅に大きな封筒が届いていました。そこには日本語で就職セミナーという文字がありました。
開けてみると、そこにはボストンで春に開かれる日本企業の就職相談会の招待状が入っていました。交通費を持つのでボストンまで来て欲しいという依頼です。丁度休みに重なっているので、行ってみようと思いました。
ボストンへは用意された航空券でラ・ガーディア空港からボストン空港へ向かうシャトル便に乗るところから始まりました。空港はラ・ガーディアのターミナルではなく、少し離れたシャトル・ターミナルでした。小さなプライベートジェット機に乗ってボストンに向かいます。空港からは地下鉄を乗り継いで、町の中心地に向かいました。たった2泊3日の旅なので荷物は大きくなく電車での移動も楽でした。宿泊は会場の近くのシェラトンホテルにしました。
当時、アメリカ全土の大学には数万人の日本人留学生がいました。その中で一部の日本人には招待状が届いたようです。優秀な生徒には交通費だけでなくホテル代なども支給されていたようです。多くの学生は、自力でボストンに来て参加していました。
私は、ひとりでの参加です。実は、自分の人生において初の一人旅でもありました。到着して部屋にチェック・インをすると町を散策しました。ボストンには車で何回か来ているので、だいたい位置関係を再確認し、明日行われる就職セミナーの場所を把握し、近くのカフェで食べ物を買い、自分の部屋で資料を読みながら軽い食事を済ませました。
翌朝、着慣れないスーツを着て、当時就職活動には必ず学生が持ち歩いていたプラスティック製の資料入れにレジメを複数枚入れ、会場に向かいました。
驚いたのは、かなりの人数の日本人学生がボストンに集まっていたことでした。こんなに沢山の日本人留学生が就職活動のためにボストンに集まっているとは思ってもみませんでした。皆が大学3年か4年生です。そして、セミナーというのは名ばかりで企業の面接会場でした。入口でレジストレーションを行い、大きなコンベンションセンターに入ると、100社近い日本企業がブースを構えていて、好きな企業の人事面接官と面接をするのです。これは事実上1次面接にあたります。面接スタイルは企業によって違っていて、複数の学生に対し面接官がひとりだったり、1対1の面接だったりしました。
私は、映画を作りたいという強い目的を持ってアメリカに来ました。このときもその思いは変わりありませんでした。そしてニューヨーク大学のビジネススクールで辛い勉強をしてきて、自分の力をだんだんと感じつつある頃でした。
しかし、集まっている企業は、重工業や製薬メーカー、旅行関係などで私の志望業種はありませんでした。
私が考えたのは、とりあえず面接を沢山受け、日本の企業がどんな人間を欲しがっているのかをリサーチすること、そして面接に慣れることを主目的にしようというものでした。
ボストンまで来て人材を確保しようという各社は、それなりに気合いが入っているはずです。そこでいろいろと聞いてみようと気軽に考えて参加することにしました。
数社ブースを周り面接を受けて感じたのは、自分の望んでいることが面接官に直ぐわかってしまうことでした。興味のない業種に関しては、何故この会社に入りたいのかという熱意が伝わりません。興味がないのだからあたりまえです。殆どの企業はここで終了です。
いくつかの会社は、興味がないにも関わらず私に対し積極的なアプローチをしてきました。当時アメリカではTOP10に入る大学に在籍していたこと、日本語と英語が堪能なこと、人柄が悪くはなかったことなどがその原因だと思います。
結局夕方の5時頃まで10社程度の面接を終え、翌日来て欲しいと言われた企業は4社でした。どこも旧財閥系の企業でした。
ブースを回っているとき、混んでいる企業の場合は列が出来ます。そこで前後にいる人と話をすることになります。私は日本語を話せるのが楽しくいろいろな人に話しかけてみました。普段英語で生活しているので日本語会話がとても嬉しかったです。わざと長い列に並んで話していました。その中のひとりが、とても気が合う人でした。アメリカ人の彼がシラキュースから車で送ってくれて、今日一日中ホテルで待ってくれているという女性で、彼女はSUNYに通っていました。私もかつてSUNYにいたので、話があったのです。
彼女によると、交通費が支給されたのは上位数校の大学の生徒だけだということを知りました。そして、彼女が話した学生のほとんどは明日の面接に呼ばれず、今日の夜ボストンを離れると言うことを聞きました。私のように何社からも声がかかった学生に初めて会ったと言われ驚きました。
彼女とは、会場近くで簡単な夕食をとりました。そしてアメリカ人の彼がボロボロの車で迎えに来たので、そこで分かれました。彼女とはその後も就職活動に関し連絡を取り合いました。
翌日の面接は次回お伝えします。
(2017.1.10 Rev.)
卒業してから、暫くは、社会人と日本いう2つの新しい世界に、衝撃を受けました。そして順応するのに2年くらいかかりました。その間は、とにかく一生懸命仕事に没頭していたように思います。
卒業以来、久しぶりにニューヨークを訪れたのは、1999年のカンヌ映画祭の帰りでした。丁度、ニューヨークで私がプロデュースする映画の撮影が行われることになり、その撮影に立ち会うため、コート・ダジュール空港からニューヨークに向かったのでした。その後も数回、仕事とプライベートでニューヨークを訪れました。
あの911テロが起こった日は、東京にいました。NYUに通う際、毎日見ていたWTCがないなんてどうしても信じられませんでした。テロ以降、暫くニューヨークにはあえて行きませんでした。そして2003年の夏、新婚旅行でニューヨークへ向かったのです。幸せと悲しみ。これがニューヨークに着いたときの感情です。
2006年、3月。卒業してから何回目のニューヨークでしょうか。私はまた機上の人となりました。いつからか、スターアライアンスゴールドメンバーとなり、ビジネスクラスで旅をする私には、初めて飛行機に乗ってニューヨークに向かった1988年の新鮮な気持ちはありません。そして、熱心に窓の外を見て今はどこか考えるという行為もしなくなり、機内でネット接続してメールを送受信していました。でも、ニューヨークが近づくと、自然と眼下を見下ろしてしまいます。今回は、初めてニューヨークに降り立ったときと同じコースを飛んでいました。白く凍った大地が見えました。そしてアップステートからニュージャージー、そして着陸直前にはスタテンアイランドとロングアイランドをはっきりと見ることができました。
懐かしさとともに、あの頃の心が蘇ってきました。
今回乗ったANAは、UNITEDのターミナルに着きました。そう、私が初めて降り立ったニューヨークと同じ場所です。実は、このビルは20年近く前とほとんど変わっていません。あの時の自分は若く、おどおどしていたに違いありません。ついつい、見えないかつての自分の姿を追いかけてしまいました。
空港には、エアトレインが出現していますし、いくつかのターミナルが新しく建設されています。でも、あの寒さや匂いは昔と変わりありませんでした。マンハッタンに向かうと、やはりWTCがありませんが、自分で勝手に脳内補完してしまい。目前に2つのタワーが見えるという不思議な体験をしました。
久しぶりに歩くマンハッタンは、当然地図なく歩けますし、昔から変わらない景色です。でも、自分の住んでいた実感がありませんでした。
時というのは、こんなにも心を変化させてしまうものなのでしょうか。久しぶりにアキラに会いました。彼は卒業後もニューヨークにとどまり成功を収めました。お互い歳を取ってはいるものの、気持ちは学生のまま。でも、食事する場所はビレッジのピザ屋ではなく、高級ホテルのラウンジです。
全てが変わってしまった今。全てが良い方向に向いています。ニューヨークを去ってから、人生は順調です。でも、あの頃には戻れません。過ぎ去ってみると、あの頃が一番楽しかったような気がします。当時はそんなこと、思ってもみませんでした。
]]>初めての中間試験が近づいてきたある日、私は、本当に試験をパスすることができるのか心配になってきました。しかし、これを避けて通るわけには行きません。授業は休まず出席し、がんばって予習復習をかかさず続けてきたので、とりあえず授業自体は理解できているつもりでした。しかしテストでは英語で解答しなければならず(当たり前!)、文法的に正しい答えを表現できない可能性がありました。回答はスペルミスをしていると減点対象であることも知りました。
そこで、私はこの壁を乗り越える秘策を編み出します。とりあえず、試験に出題されることは全て暗記するしかないという結論にたどり着き、試験範囲を全て暗記することにしました。ある特定語句について質問されても、文章を丸暗記していれば文法の間違いはないはずです。この方法は一見確実なように思えますが、実際はものすごい記憶能力が必要です。よって、試験が近づくと、毎晩、この辛い丸暗記タイムとなりました。当時は若かったのと、試験突破はこの方法しかないと思い込んでいたので、この地獄のような丸暗記大作戦は、実際に執り行われたのでした。
結果、テストはほとんど100点という快挙を果たしました。そして、テストが終わった瞬間、全ての記憶は私の脳から消去されました。
こんな、無謀な方法は長くは続きません。初めてのミッドタームでは、英語力が不安なための緊急避難の手段でした。これ以降は、英語力もついてきたので、自分の力で解答できるようになりました。でも、こんな方法で初めての試験を乗り切ったのでした。
]]>私の行ったニューヨーク州立大学は、セメスター制といって1年が3つに分かれていました。3学期制ということです。私は1年生の1学期は、語学学校(英語)、Biology 101、Math 101、Computer 101、Business 101の計5クラスをとっていました。以前書いたようにBusiness意外の教科はなんとかついていけそうでした。
語学学校はなんとしてもこの学期中に卒業して正規の生徒になるつもりでした。授業はとても簡単だがとにかくさされます。容赦なく先生は質問を投げかけてくるのです。でもこれはとても良い勉強になったと思います。日本人は実は英語の文法は心得ているのに性格的に前に出られないのです。そう、臆病なだけなのです。その殻を破ってくれたのが先生でした。ちょっとくらい間違っても発言する、そして自分の意志を伝えることの重要さを毎回指導してくれました。途中からだいぶ慣れてきて、さされたらきちんと答えるようになりました。それなりに緊張するし、流暢に英語を話せるとは思えなませんでしたが努力をして少しずつ克服していきました。
Biology 101は、単語を覚えるのが大変でした。とにかく体中の部位の単語を覚えなくてはいけない。結果、髪の毛から始まってつま先まで、もちろん内蔵もすべて英語で言えるようになりました。これは大変だったが、実際に猫を解剖して覚えていったので結構頭に入りました。まさか解剖があるとは思っていなかったですがなかなか刺激的で面白い授業でした。クラスメイトは南米から来ている女性がいて、彼女が自国ではよく猫を食べているから体の中はよく知っているといっていたましたが、これには驚きました。
Computer 101の先生はとてもおだやかで、丁寧にコンピュータの仕組みを教えてくれました。当時はウィンドウズもない頃なので、本当に基礎の基礎を学びました。実は、その後の急速なPCの普及に接し、この時の勉強がとても役立ったのは事実です。はやりハードウェアの構造とソフトウェアの基礎を勉強しておくと、その後トラブルに見舞われても、問題点を発見でき対処でき、とても助かりました。授業内容はそれほど難しくなかったのでComputer 101も順調でした。
問題はBusiness 101です。とにかく進むのが早い。1日で1チャプター進みます。そのための予習は2日かかりました。そして私以外の生徒は皆アメリカ人。当然内容も本格的で先生の会話、生徒の質問や発言も理解できなかったです。
そして、一番困ったのが宿題です。2回目の授業に出席すると、生徒が皆さん何かを提出しているのです。「あれ?提出物なんかあったかなあ?」と焦っていると、それはおそらく宿題でした。1回目の授業で宿題が出ていることすら理解できていなかったのです。このままだとドロップしないといけないという危機感に苛まれました。これだけは避けたかったのですが、宿題を出さないと当然Degree(単位)はもらえません。そこで、授業が終わる度に先生のオフィスを訪ね、わからないことを聞き、宿題の内容を確認しました。先生は怖そうな顔をしていますが優しい方で、毎回授業が終わり教授室を訪ねると、今回出た宿題はこれだ、とか、今日の授業でわからないことはないか、など聞いてくれました。この個別指導がなかったら私は途中でついていけなかったでしょう。日本では高校までそれなりに成績が良かったので、これは屈辱的でした。でも単位を取るためには仕方がないことです。我慢してなんとかこのセメスターを乗り切るしかない、と強く重い、当時はそれだけを念頭においてがんばったのです。
授業は月曜日から金曜日までで、土曜と日曜は休みでした。予習や宿題が結構出たので、家に戻っても勉強しましたが、第2週目が終わる頃になると、生活リズムがついてきて少しだけ楽になってきました。テレビも見られるようになり、ラジオも聞けるようになりました。日本からは、インスタントの食料品が送られてきました。酒屋をやっているいとこのおばさんからでした。みそ汁も飲めるし、電話で時々日本にも電話できたので、気持ちもだいぶリラックスできるようになってきました。
そして、いよいよアメリカに来て初めてのミッドターム試験を受ける時期がやってくるのです。
2017.01.20 Rev.
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