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29. ワシントンD.C.へ 1 [旅行]

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米国に来て、初めての長期休暇が始まりました。アメリカではどの学校も6月から9月まで長い夏休みがありますが、実は夏の間も授業は行われていて短期集中で単位を取得できます。私は夏休みの前半は勉強し、後半を休むことにしました。

まず、計画を立てたのは自分で車を運転してワシントンD.Cまで行ってみることでした。地図は既に購入していたので、ルートを事前にチェックしておきました。

まず、ニュージャージーを南下します。ニュージャージーには南北にニュージャージー・ターンパイクという高速道路が走っているので、同じ道をまっすぐ走るだけです。2時間半くらい走るとフィラデルフィアを右手に見ながら、デラウェア州のウィリントンという街に着きます。ワシントンまでの最短ルートは、ここからメリーランドに入るのですが、私は、デラウェア州を南下して、ヴァージニア州ノーフォークを目指しました。そこから北上しワシントンに辿り着くのです。なぜ遠回りをしたかというと、チェスアピーク湾にかかる長い橋を渡るためです。地図で見る限りかなり長い橋です。このあたりはソフトシェルクラブが名産だと聞いていました。よく食べる蟹が住んでいる場所も見てみたかったのでした。

出発当日は快晴。私のプレリュードは前日2時間掛けて自分で洗車してピカピカでした。朝9:00出発です。今回は大学で知り合った友達と一緒です。

ニュージャージーは、空港のあるニューアークを過ぎた頃から草原となりました。所々沼地もありましたが、周りには何もありません。ターンパイクの真ん中辺りに、ニューヨーク近郊では一番大きな遊園地、シックス・フラッグが経営するグレート・アドベンチャーがあります。殆どの車はここで降りてしまい、その先は交通量も激減します。ニュージャージー南部は、アメリカっぽい平原がひたすら続きました。

そろそろニュージャージーも終わると思う頃になると、急に大きな街が出現します。ここがフィラデルフィアです。私には「ロッキー」のイメージが強いのですが、学校ではフィラデルフィアは治安が悪いので近づかないよう言われていたので、街には立ち寄りませんでした。現在では治安も良く綺麗な街なのですが、90年頃は汚くて危ない街だったのです。

デラウェア・リバーを超えると、そこはデラウェア州です。日本ではあまりなじみがないかもしれませんが、ワシントンD.C.の東側に位置する歴史ある州です。この州をさらに南下します。昼は道沿いのファースト・フード店に入りました。この辺りでは、店にはいるとなんとなく人の目が気になりました。やはりアメリカの田舎ということもあり人種偏見があるのでしょう。嫌な思いこそしませんでしたが、あの視線は良いものではありません。この州には、Mr.ドーナツが沢山ありました。日本の同名チェーン店と元を辿ると関係があるそうですがアメリカでは、この小さな州だけにミスター・ドーナッツが残っているそうです。

デラウェア州は小さな州なので、1時間もすると縦断は終わってしまいます。次の州はメリーランド州です。メリーランド州は、20分横切るだけで、すぐに次のヴァージニア州に入りました。

デラウェア・リバーから先、デラウェア州全部とメリーランド州の一部、そしてヴァージニア州は、実は大きな半島で、私は1時間半程この半島を南下していたのでした。そして半島の先端には対岸に向けてとても長い橋が架かっているのでした。

車を走らせると、どんどん両側の土地がなくなっていき、両側に海が迫ってきます。そして目の前には大きな海、そして水平線に向かって突き進む長い長い橋が見えてきました。これがチェスアピープ・ベイ・ブリッジ・トンネルです。あまりに長いため途中2カ所がトンネルになっています。
距離は約9 mile、橋の途中で車を止めて海を見ると、そこは大海。波が巨大です。でも、この橋周辺には沢山の人が車を止めてのんびり釣りや蟹取りをしていました。陸から離れているので、大漁のようです。

このような長い橋を見るのも渡のも私にとって初めての経験でした。あまりの大きさに驚き、アメリカの大きさ、技術力の凄さ、経済力の強さを感じ、自分がここにいることが不思議に思えました。



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28. 初夏の出来事 [ニューヨーク州立大学]

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2nd セメスターが終わる頃、大きな事件が起きました。

共同生活をしていた箱山と江藤と私の3人は、程良い距離を置いて過ごしていました。江藤と私は毎日一緒に学校に行き、途中から二人共に車の免許を取り車を購入したので、それぞれの車で通学していましたが、夜は一緒に食事をすることがおおかったです。
江藤は、生活費を賄うために箱山が働いていた日本食レストラン「Maiko」で時々働くようになっていました。9.11前は留学生は不法ながら結構日本食レストランで働いていたようです。
箱石と私はそれほど一緒にいませんでしたが、時々夜中に3人でマンハッタンのチャイナタウンまで車で遊びに行き、中華料理を食べたりしていました。

しかし、箱山と江藤は、何が原因かわかりませんが、喧嘩を始めたのです。そして殴り合いの末決裂しました。江藤は当時付き合っていた彼女の家に行き、箱石は家に帰ってこなくなりました。
こうなると、共同生活はできません。私も日本人との生活は本意ではなかったので、このタイミングで共同生活は解散とするなりました。結局3人での共同生活は3ヶ月で破綻したのです。

夏休みに入り、私はいくつか物件を探し引っ越すことにしました。いくつかの不動産店を回り不慣れな英語で物件を探しました。最終的にMonseyという街にアパートを見つけました。初めての一人暮らしのスタートです。アメリカに到着して3ヶ月間住んだホストファミリーの家も近かったです。ロックランド郡のメインストリートである59号線に近く、バスでも簡単に学校に行けます。家から歩いていける範囲には、ショッピングセンター、小さな専門店街(ここにはアート系の映画館もありました)、そしてSpring Valley High Schoolがあり、校庭でマラソンもできました。
私の住むValley View Gardenは、外観も洒落ていて、部屋は大きなリビングと大きな寝室がありました。この辺りではなかなかの物件です。

引っ越す直前の週末。家にいても誰もいなかったので、私は、別の友人と自分の車でボストンの手前にある「ケープコッド」に車で行ってみました。鯨見学をするためです。初めての長距離旅行です。ホエール・ウォッチングに参加したくて行ったのはいいのですが、海の上はとても寒く辛い観光となりました。そして祝日だったこともありホテルはどこも満室でした。結局ホテルがみつからず日帰りで家まで帰ってきたのです。朝の7時に出発し、寒い思いをしながら鯨を見て、家に着いたのは朝の3時です。この米国に来て初めての小旅行は散々なものでした。
以後、旅行に行く前にはきちんと計画を立て、ホテルはできるだけ予約するよう心がけたのでした。

夏休みは、生徒は3ヶ月間学校を休み旅行をしたり仕事をしたりします。大学は3ヶ月間閉鎖するのかと思っていたら、夏のプログラムがあることを知らされました。普段仕事をしている人が会社の夏休み期間に大学に戻ってきて勉強するのだそうです。夏の授業は夏休みの3ヶ月間を前半と後半に分け授業を行います。普通は3ヶ月かけて授業を終えるのですがら、半分の期間で授業が進むことになります。。通常のセメスターより期間が半分しかないため、1回の授業は長く、密度も進み方も早いのです。
私は夏休みの前半を単位取得に充てることにしました。と言っても早い授業についていくのには不安があたっため、体育を取りました。週に2回学校のテニスコートに集合し、ひたすらテニスをします。出席さえすれば単位が取れるのです。1回2時間程の参加で長いのですが、単位取得にはこれが一番向いていると思ったのです。

そして、いよいよ夏休みです!まず夏の授業の前の1週間の間で、ワシントンD.Cまで車で行く計画を立てました。そして、夏の授業が終わったらナイアガラの滝にも行こうという計画を立てました。勿論マンハッタンにも遊びに行きます。

3rdセメスターが始まるまでの1ヶ月半は、楽しい旅行です。

次回からこの旅行を詳しく記します。
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27. 2nd セメスター 後半 [ニューヨーク州立大学]

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このセメスターは、殆どのクラスをドロップしてしまいとても焦りました。と同時に、アメリカでの生活に馴染んできて車を入手したので、行動範囲が広がって、アメリカ生活を楽しみだした時期でもありました。

車では、ニュージャージー州エッジウォーターにある、できたてのYaohanに行くのが楽しみでした。Yaohanは、アメリカ東海岸に初進出で、日本の大きなスーパーマーケットのようでした。店内に入ると日本語のアナウンスがあり、店の中は日本の食料品で一杯でした。駐在員の家族はここで一回数百ドルもの買い物をしていました。店内にはマンハッタンを見渡せるフードコートがあり、そこには寿司や、ラーメン屋、和菓子やが軒を連ねていました。隣のビルには紀伊國屋書店があり、価格は高いものの、日本の本や雑誌が手に入りました。そう、ここはアメリカにある日本でした。当時は日本がバブルだったこともあり、週末になると北はボストン、南はワシントンDCから日本人が押し寄せ、Yaohan周辺は大渋滞となりました。今はYaohanはなくなってしまいましたが、懐かしい思い出です。

大学生にとって最大の楽しみは、モールです。私もモールキッズで、時間があればモールに行っていました。目的がなくてもモールに行くと嬉しいのです。家の近くにはNanuet Mallというモールがあり、バスで行っていましたが、車を手にするとNanuet Mallは、あまり大きくないことがわかってきました。近くで一番大きいのはニュージャージーにあるGarden State Mallでした。あまりに巨大で驚くほどでした。そして、高級住宅地にあるRiverside MallとParamus Parkという2つのモールが個人的にはお気に入りでした。Riverside Mallには、ブランド品が沢山入っていてウィンドゥショッピングには最適でした。paramus Parkには、ベイクドポテトの専門店があり良く食べました。そしてこれら巨大モールはルート17という道で繋がっています。Rt17沿いにはGapやTower Recordなどの路面店があり、それらを覗くのも楽しかったです。

さて学校ですが、このセメスターからまたまた日本人が沢山増えました。日本がバブルということもあり、日本の大学に進学できなかったお金持ちの子供達が比較的入りやすい州立大学に押し寄せてきたようです。
小さな州立大学に日本人は30人以上いたのではないでしょうか。このくらい増えてくると日本人の固まりは分裂を始めます。これはとても醜い争いです。ある集団が別の集団を攻撃したり、無視したり....。20歳前後の若者達はくっついたり離れたり....。
私は、これらの行動を客観的に見て距離を思いっきり置くようになっていきました。もはや、話をする価値もないとまで思いました。彼らの目的は何なのでしょう?きっと日本の大学に入れず、格好悪いので米国にでも行ってこいと親に言われて来たのでしょう。学校はサボるし、語学学校の下のレベルのクラスに固まっているようです。それでいてカフェで大きな日本語で話しているのです。私は日本人としてとても恥ずかしく思いました。今となっては、人それぞれ様々な価値観を持っていることに理解があり、そういう学生を見ても、別に何とも思いませんが、当時の私はアメリカ人学生が馬鹿にしているのを聞く度にイライラしていました。

そういう私も、自分がクラスをドロップしており、最上級レベルだとしても語学学校の一員であったので、実は偉そうなことはいえない立場だったのです。
私は、とにかく日本人と距離を置くため英語を頑張りました。そしてやっと語学学校をクリアーし、正規の大学生として授業を受ける権利を得ることに成功しました。

振り返ると、2ndセメスターは、アメリカ生活に順応し、語学学校を卒業するためにだけ過ごした3ヶ月でした。

取りこぼしたクラスは夏休みに取り返すことになります。
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26. 2nd セメスター 始まる [ニューヨーク州立大学]

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4月になり、ニューヨークは日ごとに暖かくなってきました。私は新しい家からバスを2回乗り継いで大学まで通うようになりました。
でも、とても寒い日もありバス通学は結構面倒でした。バスを乗り換えるのはNanuet mallという大きなモールです。朝は営業していませんが、帰りは営業しているので週に1回はモールに寄ってウィンドウ・ショッピングをしたり、フードコートで夕食を買ったりしました。これはこれでささやかな楽しみでした。

暫くすると、私は免許を取得し遂に車を購入することができました。免許が手には入る前から、どんな車を購入すべきかリサーチを繰り返していました。車購入にはいくつかのパターンがあります。
1)とても安い古い車を個人売買する
2)とても安い古い車を業者から購入する
3)ちょっと高い中古車を個人売買する
4)ちょっと高い中古車を業者から購入する
5)新車を業者から購入する

1→5に従い、安全性は高まります。そして価格は高くなります。おおくの学生は1か2を選択します。しかし、車は故障すると、とても面倒で場合によってはアメリカの場合死に直結します。
私は、両親と相談し、4を選択しました。結局日本車の新古車をディーラーから購入するというかなり高い買い物となりました。私が選んだのはHondaのPrelude。走行距離は3000マイル。価格は200万円くらいだったと思います。親からもらったアメックスで購入し、車は翌日ディーラーに取りに行きました。

この選択は、今となっては留学生活での「正しい選択」のひとつです。結局5年乗り続け、走行距離は10000マイルを超えましたが、故障も事故もなく、安全に生活できました。そして、なんとこの車は60万円で売れたのです。アメリカ留学の相棒としてプレリュードは十分すぎるほど私を助け、生活を充実させ、行動範囲を広げることが出来ました。

車を手に入れてからの生活は一変しました。毎朝車で学校に通うようになると通学時間は片道20分です。バスでは1時間30分かかっていましたし、バスに乗り遅れることを考慮して学校には早めに到着していたので、朝起きる時間が大幅に遅くなりました。

帰りは、車でいろいろなところに行きました。今まで知らなかったモール、時にはニュージャージーにオープンしたYaohanまでもいくことができました。行動範囲が一気に広がることで、自分が住んでいる街の構造や、住んでいる場所半径100Kmくらいが自分のテリトリーとなりました。

学校は、語学学校1クラス、Sociology 101、Accounting 101、Marketing 101、Management 101を受講しました。まずAccountingは、はじめの3回でついて行けなくなりました。あまりに難しすぎるのです。そこで早めにドロップし、テレコースという自主勉強に切り替えました。このテレコースについては別の機会にお話しします。マーケティングは、クラスに不良君達が在籍し、クラスに出席するといつも下らないことを私に言ってきました。これが結構苦痛でした。嫌がらせとかいじめではないのですが、毎回余計な話をしてくるのです。これには参りました。彼らは友達だと思っているようですが、私は授業に着いていくのが大変なのです。結局このクラスもミッドターム直前に脱落してしまいます。マネージメントは、先生の話していることがさっぱりわかりませんでした。毎回、当日のNew York Timesのトップ記事を例に30分間ディスカッションするのですが、こればかりは予習が出来ずとても困りました。結局このままだと好成績が期待できずドロップ。このセメスターは結局2クラスしか受講できないというとてもまずい状況に追い込まれてしまいました。

でも、車を手に入れたことでなんだかアメリカ生活が楽しくなっていました。そして、日本人と一緒に生活していたので毎日日本語を話し、ストレスもありません。箱山は仕事帰りに日本レストランから日本食のお土産を持ってきます。まるで日本にいるようでアメリカ生活が送れるのです。こんな楽しい日々はありません。

ある夜、私は冷静に考えました。これでいいのだろうか。これで良いはずはありません。まずは、予定通り大学を卒業すること、日本人とはあまり付き合わないこと、日本文化に接触しないこと、など自分を律し態勢をを立て直すべきだと強く言い聞かせました。もし、この楽しい生活を受け入れてしまうとおおくの日本人留学生のように米国に来ただけになってしまうのです。私には大学を卒業し、希望の仕事をするという目的があります。

そこで、このセメスターは自分なりに計画を立て直しました。まず、2つの授業はきちんと受講しAを取る。そして語学学校は卒業し正規の学生になる。Accountingは、テレコースで単位を取る。空いている時間は、車で知らない場所を回り、アメリカ生活に慣れる。これ以上日本人と交流はしない。早めに共同生活を解消する。なるべく映画を見る.....

さて、だんだん暖かくなり街には花が咲き、夏休みに向かって開放感が満ちあふれる20代の若者は、誘惑に打ち勝ち、留学性生活を軌道に乗せることができるのでしょうか。

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25. 引っ越し [ニューヨーク州立大学]

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1st セメスターが終了し、1週間ほどスプリング・ブレイクという休みがありました。私は車の免許を取るため、免許センターにいって手続きをしたり、教習所に通ったりしていました。マンハッタンで初めて字幕なしの映画を見たのもこのころです。映画は「ミシシッピー・バーニング」でした。初めてのブロードウェイ・ミュージカルをウィンターガーデンで見ました。演目は「キャッツ」でした。これはストーリーがさっぱりわかりませんでした。

そんな時、大学にいる日本人から電話がかかってきました。ちょっと食事に行かないかというのです。箱山は、ボロボロの車を持っていて、バス停でバスを待っている私を見つけると、車で送ってくれる気の良い男でした。ただ勉強は全くできないようで、語学学校では一番下のクラスにいて、大学の授業は受けられませんでした。そんな感じが数年続いているようで、大学では彼をあまり見かけませんでした。

彼は、New Cityに良い物件があるから、一緒に住みたいということを言い出しました。私は日本人とはあまり付き合わないようにしていましたが、どうしても家を見に行こうと誘われたので、断ることが出来ずNew Cityという街に行ってみました。
そこは、とても綺麗で高級住宅地でした。近くにはゴルフ場やテニスコートがあり、ニューヨーク・シティまで直通のバスが沢山出ていました。要はマンハッタンで働くエクゼクティブたちのベッドタウンなのです。あまりに洗練された町並みに驚き、こんな街に住んでみたいと思いました。そして空いているという部屋は巨大でした。
私はすっかり心を奪われ、New Cityに住みたくなってしまいました。その物件はタウンハウスと呼ばれる建物で、3階建ての長屋です。家賃は1ヶ月1000ドルでした。箱山は、200ドルしかだけないので1階の下にある半地下に住むと言うのです。私は残りの800ドルを負担することになり、1階のリビングと2階、3階が使えるのですが、800も支払う余裕はありませんでした。
すると箱山は、もうひとり探してくると言い出しました。結局、私と同じタイミングで大学に入り一生懸命勉強している江藤君を連れてきたのです。江藤君はとてもまじめで、学力は私と同じくらいでした。彼となら一緒に勉強ががんばれそうです。そこで、この3人で、New Cityでの共同生活をすることにしたのです。

まず、ホストファミリーにこのことを告げました。シシリーはとてもショックだったようで、落ち込んでしまいました。そして大学の留学生課に長い電話を掛けていました。結局、気持ちよく私を送り出すことになりました。たった3ヶ月間でしたが、私を支えてくれた家族に感謝しました。そして彼らとは。その後とても長いつきあいをすることになります。

引っ越しは簡単でした。スーツケース1つだからです。日本を発った時から服が数枚増えているだけでした。私はタウンハウスの3階に住むことになりました。2階の江藤とバス・トイレは共用です。お互い鑑賞しすぎないように気をつけ、友人をむやみに呼ばないことを約束しました。

大学へは、バスを乗り換えなければならない程距離が離れてしまいましたが、2nd セメスターは、毎朝江藤と二人でバスを乗り継ぎ学校へと通いました。二人だと日本語が話せて楽しかったです。箱山は、学校にはますます行かなくなり、家から直ぐの日本食レストラン「Maiko」で働き始めました。彼は、完全に不法滞在者の道を歩んでいました。

1st セメスターと2nd セメスターの間には、こんな変化がありました。
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24. 1st セメスター Final Exam. [ニューヨーク州立大学]

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米国に来て初めての生活、そして初めての大学、初めての授業・・・一度に沢山の経験をしました。日本では、両親に大切に育てられ、1人で旅行などしたこともない20才前の青年が体験するにはあまりにもおおすぎる情報量、そして処理能力に、後半はかなり疲れていました。

生活自体は慣れてきて、ホストファミリーとも大分仲良くなれてきたので、それだけは良かったのですが、授業、特にBusiness 101は、とても大変でした。実は勉強自体はそれほどでもなかったのですが、日本人がアメリカ人に混じって授業を受けるストレス、そして指される恐怖に、精神的な不安が重なり、とても辛かったのです。他の授業は、外国人のためのクラスだったため、先生はとてもわかりやすい英語で話してくれました。しかしレッカー教授は、もの凄い勢いで授業を進めるのです。途中で何度もドロップアウトを考えました。この学校の決まりでは、ミッドタームの成績が悪い場合は、後半が始まる頃までに、自主的にクラスを去る権利が与えられていました。この時期までに自己申告すると、はじめからクラスを取っていなかったことになり、成績には履歴が残らないのです。その代わり、このタイミングを逃すと、成績はどんなに悪くても記録に残ってしまうのです。

正に「Point of No Return」戻れない日があるのです。ラッキーなことにミッドターム試験の成績が意外と良かった私は、このクラスを最期までやり遂げようと決意しました。ファイナル試験で、ある程度の成績を取れば、良い記録が残せると思いました。

しかし、世の中そんなに甘いものではありません。ミッドタームを過ぎると、一気に内容が難しくなっていきました。そして、先生は下を向いている私を容赦なく指すのです。時には先生の質問内容がさっぱりわかりませんでした。でももう後戻りはできません。しかもファイナル試験で悪い点を取ると、それがその後の学生生活を引っ張るのです。これはなんとしてでも食い止めなければいけません。

この後、3年半の学生生活を苦しい状況に追い込みたくないですし、初めてのセメスターが一番簡単なはずですから、ここでC以下を取るわけにはいかないのです。

他のクラスは、なんとかなりそうです。私は、毎日Business 101の勉強ばかりしました。そして、ファイナル・エクザムが近づいてきたのです。

テストは、さっぱりしたものです。時間になったら試験会場に行き、時間内にテストを受けるのです。結果は、教授の部屋の前に1週間後に張り出されます。

私は、宿題もきちんと提出し、授業には必ず出席し、予習・復習も欠かせませんでした。自分なりには頑張ったつもりですが、アメリカの大学は、そんなことは考慮してくれません。テスト結果が全てなのです。

結果、私はテストで高得点を取りB+でBusiness101を終了しました。とりあえずホッとしましたが、有名大学にトランスファー(転校)する場合は、州立大学で全ての教科の平均をA-以上にキープしないといけないので、もう少し頑張るべきでした。でも他の教科はAかA+だったので、とりあえず、初めてのセメスターは満足できる結果となりました。

セメスターが終わると、早速4月からのセメスターが始まります。私にとっての2nd セメスターです。
学校でできた友達に聞いたり、Student Unionに行ったりして、どんな教科を取ればいいのか調べました。

そして、英語のテストで語学学校を卒業するという目的のため、改めて正規の生徒になるための英語能力試験を受けました。試験に合格すれば、Full Timeで大学の生徒となり授業が自由に受けられるようになります。私にとっては早くFull Time Studentになり一刻も早く、この大学を卒業したかったのです。何故なら親に高い授業料を払わせているからです。早く卒業することが私に出来る唯一の親孝行でした。

しかし・・・・・
残念ながら、英語の試験はパスできませんでした。来セメスターも週に3時間程、留学生用の語学学校に通わねばなりませんでした。
英語力は一生私を苦しめていますが、これが真の英語地獄の始まりだったような気がしています・・・

2017.01.11 Rev.

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23. 1st セメスター後半 [ニューヨーク州立大学]

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なんとかミッドターム(中間試験)を終え、なんとか各教科をパスすると、ちょっとホッとしてきました。授業も受けるコツを掴み、前半ほど辛いとは思わなくなってきました。あとは授業を休まずきっちりと内容を理解し、ファイナル(期末試験)を受ければなんとかなるのでは、と思い始める余裕ができてきました。

当時、私は平日、以下のようなパターンで生活しました。
朝は7:00起床です。既にホストファミリーは、支度をして家を出る頃です。朝は階下でバタバタと準備をする音が聞こえてくるので目が覚めてしまいます。お母さんのシシリーは、家を出るとき、大きな声で「Bye!」と叫んでくれます。
その声を聞き、私は2階から降り、キッチンにあるTVをつけます。リビングには大きなテレビがあるのですが、お父さんが大事にしているので、私は触れませんでした。そして大きなテレビにはケーブルテレビが接続されていて使い方がよくわからなかったのです。キッチンのTVは、とても原始的な白黒テレビで、チャンネルはダイヤルでチューニングするタイプのものでした。このダイヤルを回すと、かなりノイズが入りますが、日本の番組を視聴できました。当時フジテレビのニューヨーク支局であるFCIが民法のチャンネルを2時間借りて放送している日本人向けのニュースです。私には日本の情報は、この雑音の中のアナウンサーの声しかありませんでした。だから、毎日必死になってこのニュースを聞いたのです。
ニュースを聞きながらコーヒーを入れ(といってもインスタントです)、支度をして家を出ます。

家から数分歩くと、ルート59というこのロックランド郡のメインストリートにでます。ここで待っていると大学行きのバスがやってくるのです。朝は1時間に2本、昼間は1時間に1本という本数の少なさです。1本乗り過ごすと大変なことになるので、いつも早めに学校に着くよう家を出ていました。
初めてのセメスターは1月から3月です。外はマイナス20度にもなる極寒の世界です。できるだけバス待ちの時間を短くしたいのですが、乗り遅れるのがいやなので、結果10分以上も寒い道路沿いで立っているしかありません。
バスを利用するのは、低所得者か学生くらいです。殆どのアメリカ人は車を所有しており、毎日バスに乗ると、なんとなく品がない感じでちょっと寂しかったです。でも1週間もすれば、バスを楽しむようになりました。

学校にはバスで20分程度です。学校に着くと、授業には早すぎるのでカフェに行き朝食を食べました。ここのカフェは、何故かベーグルがとても美味しく、今でもあのベーグルが世界一だと思っています。この学校の学生の8割がユダヤ人だから、きっと本物のベーグルだったのでしょう。そんなベーグルも当時は日本にはなく、初めは固いドーナッツだと思っていました。私のお気に入りは、コーンビーフとジャガイモの角切りを炒めたハッシュド・ビーフという食べ物、そしてニューイングランド・クラム・チャウダーです。これがメニューにある日は、必ず食べていました。

授業の時間になると、生徒はクラスルームに集まります。私も授業を受けます。1日に2個か3個の授業を受けたら帰るのですが、バスを待つ間は、図書館で復習することがおおかったです。朝と昼は沢山の学生がカフェにいるのですが、夕方は学校自体が閑散としてしまい、カフェに行っても生徒が数人いるくらいでした。
殆どの学生が車で通学しているので、授業が終わると車に乗り帰ってしまうのです。そして殆どの学生が学校の後、働いていました。私はF-1ビザ(留学生用)で、米国に来ているので働くことは許されず、毎日夕方は復習をすることにしていたというわけです。

バスの時間になると、バスに乗り家に帰ります。だいたい17時頃には家に着くので、それから近くのスーパーに歩いて買い物に行き、ひとりで夕食を作ります。スーパーはPathmarkというチェーン店で、とにかく大きなショッピングセンターでした。そこで、いろいろな食材を買って家で食べました。毎日、夕食は楽しみでした。

夜は、自分の部屋で明日の予習です。この予習をしないと、授業の内容がさっぱりわかりません。だから、辞書をひきながら、教科書に書いてある内容を全て把握しておかないといけないのです。

こうして平日は終わっていきました。

当時は、授業中、先生の言っていることが聞き取れなかったので、ずっと神経を集中するため、寝る頃にはとても疲れていました。だから毎晩とても良く眠れました。

週末は、学校はお休みです。
家にいても特にすることはないので、バスを乗り継ぎモールに遊びに行きました。近くにはNanuet Mallというとんでもなく大きなモールがあり、そこに行くのがとても楽しみでした。(でも後になってわかるのですが、このモールはそれほど大きくないのでした。)
モールには、衣料品からフードコートまで揃っていて、必要なものは何でも揃うところでした。私はベネトンの服を買い、ハンバーガーや大きなコーラを飲んでアメリカ生活を満喫しているつもりでした。
今となっては、可愛らしいお話しですが、当時はこれでも精一杯生きていたのでした。

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22. ノスタルジア [雑談]


NYUを卒業して、すでに12年が経ちました。
今では仕事にやりがいが出てきて、ニューヨークで暮らしていたことさえ、夢ではないかと思える程時が経っていたことに気づきました。

卒業してから、暫くは、社会人と日本いう2つの新しい世界に、衝撃を受けました。そして順応するのに2年くらいかかりました。その間は、とにかく一生懸命仕事に没頭していたように思います。

卒業以来、久しぶりにニューヨークを訪れたのは、1999年のカンヌ映画祭の帰りでした。丁度、ニューヨークで私がプロデュースする映画の撮影が行われることになり、その撮影に立ち会うため、コート・ダジュール空港からニューヨークに向かったのでした。その後も数回、仕事とプライベートでニューヨークを訪れました。

あの911テロが起こった日は、東京にいました。NYUに通う際、毎日見ていたWTCがないなんてどうしても信じられませんでした。テロ以降、暫くニューヨークにはあえて行きませんでした。そして2003年の夏、新婚旅行でニューヨークへ向かったのです。幸せと悲しみ。これがニューヨークに着いたときの感情です。

2006年、3月。卒業してから何回目のニューヨークでしょうか。私はまた機上の人となりました。いつからか、スターアライアンスゴールドメンバーとなり、ビジネスクラスで旅をする私には、初めて飛行機に乗ってニューヨークに向かった1988年の新鮮な気持ちはありません。そして、熱心に窓の外を見て今はどこか考えるという行為もしなくなり、機内でネット接続してメールを送受信していました。でも、ニューヨークが近づくと、自然と眼下を見下ろしてしまいます。今回は、初めてニューヨークに降り立ったときと同じコースを飛んでいました。白く凍った大地が見えました。そしてアップステートからニュージャージー、そして着陸直前にはスタテンアイランドとロングアイランドをはっきりと見ることができました。

懐かしさとともに、あの頃の心が蘇ってきました。

今回乗ったANAは、UNITEDのターミナルに着きました。そう、私が初めて降り立ったニューヨークと同じ場所です。実は、このビルは20年近く前とほとんど変わっていません。あの時の自分は若く、おどおどしていたに違いありません。ついつい、見えないかつての自分の姿を追いかけてしまいました。

空港には、エアトレインが出現していますし、いくつかのターミナルが新しく建設されています。でも、あの寒さや匂いは昔と変わりありませんでした。マンハッタンに向かうと、やはりWTCがありませんが、自分で勝手に脳内補完してしまい。目前に2つのタワーが見えるという不思議な体験をしました。

久しぶりに歩くマンハッタンは、当然地図なく歩けますし、昔から変わらない景色です。でも、自分の住んでいた実感がありませんでした。

時というのは、こんなにも心を変化させてしまうものなのでしょうか。久しぶりにアキラに会いました。彼は卒業後もニューヨークにとどまり成功を収めました。お互い歳を取ってはいるものの、気持ちは学生のまま。でも、食事する場所はビレッジのピザ屋ではなく、高級ホテルのラウンジです。

全てが変わってしまった今。全てが良い方向に向いています。ニューヨークを去ってから、人生は順調です。でも、あの頃には戻れません。過ぎ去ってみると、あの頃が一番楽しかったような気がします。当時はそんなこと、思ってもみませんでした。


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21. 1st セメスター Midterm Exam. [ニューヨーク州立大学]

初めての中間試験が近づいてきたある日、私は、本当に試験をパスすることができるのか心配になってきました。しかし、これを避けて通るわけには行きません。授業は休まず出席し、がんばって予習復習をかかさず続けてきたので、とりあえず授業自体は理解できているつもりでした。しかしテストでは英語で解答しなければならず(当たり前!)、文法的に正しい答えを表現できない可能性がありました。回答はスペルミスをしていると減点対象であることも知りました。

そこで、私はこの壁を乗り越える秘策を編み出します。とりあえず、試験に出題されることは全て暗記するしかないという結論にたどり着き、試験範囲を全て暗記することにしました。ある特定語句について質問されても、文章を丸暗記していれば文法の間違いはないはずです。この方法は一見確実なように思えますが、実際はものすごい記憶能力が必要です。よって、試験が近づくと、毎晩、この辛い丸暗記タイムとなりました。当時は若かったのと、試験突破はこの方法しかないと思い込んでいたので、この地獄のような丸暗記大作戦は、実際に執り行われたのでした。

結果、テストはほとんど100点という快挙を果たしました。そして、テストが終わった瞬間、全ての記憶は私の脳から消去されました。

こんな、無謀な方法は長くは続きません。初めてのミッドタームでは、英語力が不安なための緊急避難の手段でした。これ以降は、英語力もついてきたので、自分の力で解答できるようになりました。でも、こんな方法で初めての試験を乗り切ったのでした。


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20. 1st セメスター 大学2週目 [ニューヨーク州立大学]

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私の行ったニューヨーク州立大学は、セメスター制といって1年が3つに分かれていました。3学期制ということです。私は1年生の1学期は、語学学校(英語)、Biology 101、Math 101、Computer 101、Business 101の計5クラスをとっていました。以前書いたようにBusiness意外の教科はなんとかついていけそうでした。

語学学校はなんとしてもこの学期中に卒業して正規の生徒になるつもりでした。授業はとても簡単だがとにかくさされます。容赦なく先生は質問を投げかけてくるのです。でもこれはとても良い勉強になったと思います。日本人は実は英語の文法は心得ているのに性格的に前に出られないのです。そう、臆病なだけなのです。その殻を破ってくれたのが先生でした。ちょっとくらい間違っても発言する、そして自分の意志を伝えることの重要さを毎回指導してくれました。途中からだいぶ慣れてきて、さされたらきちんと答えるようになりました。それなりに緊張するし、流暢に英語を話せるとは思えなませんでしたが努力をして少しずつ克服していきました。

Biology 101は、単語を覚えるのが大変でした。とにかく体中の部位の単語を覚えなくてはいけない。結果、髪の毛から始まってつま先まで、もちろん内蔵もすべて英語で言えるようになりました。これは大変だったが、実際に猫を解剖して覚えていったので結構頭に入りました。まさか解剖があるとは思っていなかったですがなかなか刺激的で面白い授業でした。クラスメイトは南米から来ている女性がいて、彼女が自国ではよく猫を食べているから体の中はよく知っているといっていたましたが、これには驚きました。

Computer 101の先生はとてもおだやかで、丁寧にコンピュータの仕組みを教えてくれました。当時はウィンドウズもない頃なので、本当に基礎の基礎を学びました。実は、その後の急速なPCの普及に接し、この時の勉強がとても役立ったのは事実です。はやりハードウェアの構造とソフトウェアの基礎を勉強しておくと、その後トラブルに見舞われても、問題点を発見でき対処でき、とても助かりました。授業内容はそれほど難しくなかったのでComputer 101も順調でした。

問題はBusiness 101です。とにかく進むのが早い。1日で1チャプター進みます。そのための予習は2日かかりました。そして私以外の生徒は皆アメリカ人。当然内容も本格的で先生の会話、生徒の質問や発言も理解できなかったです。
そして、一番困ったのが宿題です。2回目の授業に出席すると、生徒が皆さん何かを提出しているのです。「あれ?提出物なんかあったかなあ?」と焦っていると、それはおそらく宿題でした。1回目の授業で宿題が出ていることすら理解できていなかったのです。このままだとドロップしないといけないという危機感に苛まれました。これだけは避けたかったのですが、宿題を出さないと当然Degree(単位)はもらえません。そこで、授業が終わる度に先生のオフィスを訪ね、わからないことを聞き、宿題の内容を確認しました。先生は怖そうな顔をしていますが優しい方で、毎回授業が終わり教授室を訪ねると、今回出た宿題はこれだ、とか、今日の授業でわからないことはないか、など聞いてくれました。この個別指導がなかったら私は途中でついていけなかったでしょう。日本では高校までそれなりに成績が良かったので、これは屈辱的でした。でも単位を取るためには仕方がないことです。我慢してなんとかこのセメスターを乗り切るしかない、と強く重い、当時はそれだけを念頭においてがんばったのです。

授業は月曜日から金曜日までで、土曜と日曜は休みでした。予習や宿題が結構出たので、家に戻っても勉強しましたが、第2週目が終わる頃になると、生活リズムがついてきて少しだけ楽になってきました。テレビも見られるようになり、ラジオも聞けるようになりました。日本からは、インスタントの食料品が送られてきました。酒屋をやっているいとこのおばさんからでした。みそ汁も飲めるし、電話で時々日本にも電話できたので、気持ちもだいぶリラックスできるようになってきました。

そして、いよいよアメリカに来て初めてのミッドターム試験を受ける時期がやってくるのです。

2017.01.20 Rev.


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