3. アメリカとの出会い〜高校 [留学を決意するまで]
高校に入る頃には、新聞に映画のレビューを投稿するようになっていました。そんな「文化的」な生活をしていると、学業はおろそかになりがちです。確かに勉強は先生や両親に怒られない範囲で要領よくやっていたように思います。学年では常に上の下あたりにいて極力目立たないようにしながら、映画に情熱を傾けていました。よって、英語はいつも3か4。得意でもなくむしろ嫌いな科目でした。
私は、さらに映画に没頭していきます。当時の愛読書はヒッチコック作品を検証した「ヒッチコック トリフォー」です。高校になると映画を見るだけではなく、撮影技術や脚本の書き方などにも傾倒し、そちら方面の勉強をしていきました。
この辺りまでマニアになると、日本語訳された専門書はほぼ読み尽くしてしまいました。そこで、嫌いな英語を駆使して映英語で書かれた専門書を読み始めました。この頃驚いたのは、小学生のとき通っていた英語教室で教えてもらった単語が役に立ったということです。意外と覚えているもので、文法さえ理解すれば、英語で書かれた文章の概要は把握することができました。
私はせっかく学んだ映画の知識や最新情報を自分の頭の中にとどめておくのがもったいないと思うようになり、高校で同じクラスだった洋楽マニアにこの悩みを打ち明けたところ、彼も同じ悩みを共有していることがわかり、それ以降は、お互いに自分の知識を膨大な資料として紙にまとめ送り合う仲になりました。彼とは学校では仲良しグループではなかったため、学校では殆ど話しませんでしたが、洋楽に対する膨大な知識に感心し、それらのコメントに感銘を受けました。
彼からの手紙(といっても個人的んことなど一切書いてなく、ただひたすら洋楽の知識が詰め込まれている書簡)を読むと、アメリカだけでなくヨーロッパの音楽シーンについてわかってきました。例えばビートルズだけで300ページくらいの手紙が届きます。そこにはポールとジョンの生い立ちから出会い、そして解散までがびっしりと書き込まれています。次の手紙には全アルバムの解説と1曲1曲の成り立ちや他の曲との関連性がかかれているといった具合です。月に2回くらい届くこの私的雑誌は私の楽しみのひとつとなりました。そして、私も彼に向けて映画版の手紙を送り続けました。
私は、この高校時代でアメリカ文化を吸収し咀嚼し、自分の将来像を思い描くようになりました。はっきりとした目標は見つかりませんが、アメリカに渡りエンターテイメント業界に入ろうということだけは見えてきました。
さあ、では、どうすれば自分の将来への道を歩めば良いのでしょう?当時は見当もつきませんでしたが、持ち前のリサーチ力で面白いことがわかってくるのです。
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