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7. ニューヨーク到着3日目 ニュース! [大学入学とアメリカ生活]

朝起きて、ホテルに併設されているファミリーレストランに向かいました。実は、ニューヨーク1日目に宿泊したインターコンチネンタルホテルのオレンジジュースがとてもおいしかったので、かなり期待してしまいました。外は雪。山というより林が広がっており、その中に木漏れ日が溢れていました。肌を刺すような寒さを感じたのは、後でわかったのですがマイナス20度近くまで気温が下がっていたからです。でも自分の目に映る光景はとても暖かく、実際の気温程は寒さを感じていなかったように思います。

ファミリーレストランでは、いわゆるコンチネンタルブレックファーストを頼み、透き通るような薄いアメリカンコーヒーを飲みました。コーヒーは薄かったのですが、オレンジジュースはとてもおいしかったです。今後は毎日このおいしいジュースが飲めるんだと思いちょっとだけ嬉しかったです。そしてホテルのロビーに戻ると、新聞が届いていました。

「Emperor Dies」

あぁ、天皇が崩御したんだ。これで昭和が終わったんだなあ。

それ以降、情報が欲しくても手に入れることはできなませんでした。テレビをつけるとニュースの1コーナーで天皇崩御に触れるのですが、長くて5分程度で次のニュースに移ってしまうのです。きっと日本では、民放はCMを取りやめて大騒ぎなんだろうなあと思いつつ、私は、支度を始めました。今日はきっと昭和最後の日、そして新しい時代最初の日。私にとっても今日からが本当の意味での留学初日です。気を引き締め頑張らなければ。

Student Unionのスタッフは昼頃ホテルに迎えにきてくれました。そしてホストファミリーのもとへ向かったのです。
郡道59号線を東に進むと、この道がこのあたりの主要道だということがよくわかります。途中、道路脇に広がるショッピングセンター内のCitibankで口座を作りました。アメリカの銀行は日本と違い、お客さんがほとんどいないオフィスのようでした。応接セットのようなところに座らされ、学校の保証のもと口座を開く。父親から貰ったトラベラーズチェックはここで私の手を離れました。

しばらく走ると、道路脇には先程口座を開設したような銀行や巨大ショッピングセンター、そして付随する専門店が合わさった商店群が1Kmおきくらいにあることがわかってきました。きっと住人は車でこれら商店群に日々買い物にくるのでしょう。面白いのは商店群の構成はどこも巨大ショッピングセンター、銀行、小さなレストラン数件、日曜大工店と同じことでした。ただ入っているチェーン店がそれぞれ違います。私が暮らすことになるニューヨーク州ロックランド郡ではショッピングセンターはShopriteというチェーン店が一番勢いがあるようでした。銀行はBank of New Yorkの数がおおかったです。日曜大工はRickel。レストランは個人経営の中華料理店が多いというのもわかってきました。

さて、いよいよホストファミリーの家に近づいてきました。街の名前はSpring Valley。なんだかかわいい名前です。
South Cole Ave.とかかれた幅5mくらいの道に入ると、そこは新興住宅地でした。三角屋根のパステルカラーに塗られた同じような形の家々が出現しました。1軒自体はそれほど大きくなさそうです。場所によっては複数所帯が背中合わせでくっついているタウンハウスのような住宅もありました。私は、2世帯が繋がっている建物に連れて行かれました。

ドアを開けると、中からアフリカンアメリカンの女性が現れたのです。私は動揺したのをはっきりと覚えています。別に差別をする訳ではありませんが、私が勝手に想像していたのは若い白人夫婦と数人の子供達だったのです。それがかなり真っ黒な肌の女性が現れたことで相当驚いてしまったのです。家に入ると、旦那さんが立っていました。どう見ても身長は2mくらいあり体を鍛えているようで巨大でした。プロレスの選手のようでした。そして無口だったのです。大学のスタッフは軽く挨拶して帰ってしまいました。置き去りとなった私の表情は強張っていたことでしょう。シシリーと名乗った奥さんは、私を2階へと案内してくれました。2階にはベッドルームが2つとバス・トイレがあり、私は2階部分を自由に使っていいと言われました。これはとても嬉しかったです。とりあえず2階に行けば、そこは我がテリトリーなのです。2階にいれば安全だ!シシリーは私がこの家で初めて迎え入れた学生だということ、自分はブロンクス病院の医院長秘書だということ、旦那は元ボクシングの選手で今も体を鍛えているのだということなどを話してくれました。悪い人たちではないのはわかっていたのですが、どうしても体が動かず、その後は夕方になるまで自分の部屋に閉じこもってしまいました。シシリーは私のために時計付きラジオを購入してくれていました。ラジオをつけるとどの局も同じ音楽を繰り返し流していました。ポーラ・アブドゥルの「Straight Up」、フィル・コリンズの「Two Heart」、そしてボーイ ミーツ ガールの「Waiting For A Star To Fall」。私はこの曲を聞きながら荷物を整理し、一気に不安になった今後の生活を考えてみたのです。

夕方になるとシシリーが買い物に誘ってくれました。近くのショッピングセンターに買い物に行くと言う。シシリーの車はDATSUNのぼろぼろの2ドアクーペでした。しかもマニュアルで、ギアを変える毎に車がガタガタと揺れました。車で10分もかからない距離だったのですがやたらと長く感じました。

連れて行ってもらったMonseyという街のPathMarkというショッピングセンターは大きかったです。実は後で考えるとアメリカでは標準的な大きさなのですが、日本にはない巨大な面積に並べられた商品群には圧倒されました。ポップコーンは枕のように大きく、冷凍食品だけで数百種類並んでいる。いったいどれを買えば良いのかすら見当がつかない状況でした。
シシリーは果物がおいしいと説明してくれました。ワックスでピカピカに光っているリンゴを数個、歯磨き粉やティッシュペーパーなど生活用品をいくつかかったのを記憶しています。これからは学校の帰りにここで買い物をすればいいのか、次回からはここにある全てのものを食べてみよう、となんだか変な決意をしながら部屋に戻りました。

夜になるとなんだか騒がしくなってきました。この家庭には子供がいたのです。リチャードという小猿のような男の子は幼稚園に通っているようで、両親が共働きのため平日の帰宅は夜の7時くらいになるようです。

アメリカ東海岸では当たり前のようですが、間借り人はホストファミリーと一緒に食事をしないそうです。私はそんなルールも知らず、1階からくるピザのいい匂いを嗅ぎながら、リンゴを数個食べました。初日から夕食に誘われないということに何か別の意味があるのかかなり悩みましたが、この日はとりあえずおとなしくしていようという、消極的な考えがリンゴを齧るという行為に向かったのです。

夜、電話を借りて日本の実家に電話をしました。このときはかなりへこたれていて、声がかなり不安だったようです。両親に心配をかけてしまって申し訳ないのですが、そのときの自分は精神的に相当参っていたはずです。それまで、海外にも行ったことがなく、家族と幸せに暮らしてきたティーンエイジャーが、ひとりで寒いニューヨークの片田舎の知らない人の家でリンゴをかじっているのです。今思えば、気の小さい男だなあ、と滑稽に思いますが、そのときの自分はこの世の果てで生き残ったと思うくらい寂しかったでした。

1988/01/09
2006/03/07 Rev.


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