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21. 1st セメスター Midterm Exam. [ニューヨーク州立大学]

初めての中間試験が近づいてきたある日、私は、本当に試験をパスすることができるのか心配になってきました。しかし、これを避けて通るわけには行きません。授業は休まず出席し、がんばって予習復習をかかさず続けてきたので、とりあえず授業自体は理解できているつもりでした。しかしテストでは英語で解答しなければならず(当たり前!)、文法的に正しい答えを表現できない可能性がありました。回答はスペルミスをしていると減点対象であることも知りました。

そこで、私はこの壁を乗り越える秘策を編み出します。とりあえず、試験に出題されることは全て暗記するしかないという結論にたどり着き、試験範囲を全て暗記することにしました。ある特定語句について質問されても、文章を丸暗記していれば文法の間違いはないはずです。この方法は一見確実なように思えますが、実際はものすごい記憶能力が必要です。よって、試験が近づくと、毎晩、この辛い丸暗記タイムとなりました。当時は若かったのと、試験突破はこの方法しかないと思い込んでいたので、この地獄のような丸暗記大作戦は、実際に執り行われたのでした。

結果、テストはほとんど100点という快挙を果たしました。そして、テストが終わった瞬間、全ての記憶は私の脳から消去されました。

こんな、無謀な方法は長くは続きません。初めてのミッドタームでは、英語力が不安なための緊急避難の手段でした。これ以降は、英語力もついてきたので、自分の力で解答できるようになりました。でも、こんな方法で初めての試験を乗り切ったのでした。


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20. 1st セメスター 大学2週目 [ニューヨーク州立大学]

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私の行ったニューヨーク州立大学は、セメスター制といって1年が3つに分かれていました。3学期制ということです。私は1年生の1学期は、語学学校(英語)、Biology 101、Math 101、Computer 101、Business 101の計5クラスをとっていました。以前書いたようにBusiness意外の教科はなんとかついていけそうでした。

語学学校はなんとしてもこの学期中に卒業して正規の生徒になるつもりでした。授業はとても簡単だがとにかくさされます。容赦なく先生は質問を投げかけてくるのです。でもこれはとても良い勉強になったと思います。日本人は実は英語の文法は心得ているのに性格的に前に出られないのです。そう、臆病なだけなのです。その殻を破ってくれたのが先生でした。ちょっとくらい間違っても発言する、そして自分の意志を伝えることの重要さを毎回指導してくれました。途中からだいぶ慣れてきて、さされたらきちんと答えるようになりました。それなりに緊張するし、流暢に英語を話せるとは思えなませんでしたが努力をして少しずつ克服していきました。

Biology 101は、単語を覚えるのが大変でした。とにかく体中の部位の単語を覚えなくてはいけない。結果、髪の毛から始まってつま先まで、もちろん内蔵もすべて英語で言えるようになりました。これは大変だったが、実際に猫を解剖して覚えていったので結構頭に入りました。まさか解剖があるとは思っていなかったですがなかなか刺激的で面白い授業でした。クラスメイトは南米から来ている女性がいて、彼女が自国ではよく猫を食べているから体の中はよく知っているといっていたましたが、これには驚きました。

Computer 101の先生はとてもおだやかで、丁寧にコンピュータの仕組みを教えてくれました。当時はウィンドウズもない頃なので、本当に基礎の基礎を学びました。実は、その後の急速なPCの普及に接し、この時の勉強がとても役立ったのは事実です。はやりハードウェアの構造とソフトウェアの基礎を勉強しておくと、その後トラブルに見舞われても、問題点を発見でき対処でき、とても助かりました。授業内容はそれほど難しくなかったのでComputer 101も順調でした。

問題はBusiness 101です。とにかく進むのが早い。1日で1チャプター進みます。そのための予習は2日かかりました。そして私以外の生徒は皆アメリカ人。当然内容も本格的で先生の会話、生徒の質問や発言も理解できなかったです。
そして、一番困ったのが宿題です。2回目の授業に出席すると、生徒が皆さん何かを提出しているのです。「あれ?提出物なんかあったかなあ?」と焦っていると、それはおそらく宿題でした。1回目の授業で宿題が出ていることすら理解できていなかったのです。このままだとドロップしないといけないという危機感に苛まれました。これだけは避けたかったのですが、宿題を出さないと当然Degree(単位)はもらえません。そこで、授業が終わる度に先生のオフィスを訪ね、わからないことを聞き、宿題の内容を確認しました。先生は怖そうな顔をしていますが優しい方で、毎回授業が終わり教授室を訪ねると、今回出た宿題はこれだ、とか、今日の授業でわからないことはないか、など聞いてくれました。この個別指導がなかったら私は途中でついていけなかったでしょう。日本では高校までそれなりに成績が良かったので、これは屈辱的でした。でも単位を取るためには仕方がないことです。我慢してなんとかこのセメスターを乗り切るしかない、と強く重い、当時はそれだけを念頭においてがんばったのです。

授業は月曜日から金曜日までで、土曜と日曜は休みでした。予習や宿題が結構出たので、家に戻っても勉強しましたが、第2週目が終わる頃になると、生活リズムがついてきて少しだけ楽になってきました。テレビも見られるようになり、ラジオも聞けるようになりました。日本からは、インスタントの食料品が送られてきました。酒屋をやっているいとこのおばさんからでした。みそ汁も飲めるし、電話で時々日本にも電話できたので、気持ちもだいぶリラックスできるようになってきました。

そして、いよいよアメリカに来て初めてのミッドターム試験を受ける時期がやってくるのです。

2017.01.20 Rev.


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15. 1st セメスター 大学2日目 [ニューヨーク州立大学]

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大学2日目は、コンピューターとビジネスのクラスでした。このクラスは火曜&木曜週2回、1回1時間30分のクラスです。

コンピュータのクラスは、実は楽しみでした。今までPCなんて使ったこともなかったのですが、機械は好きでした。クラスに参加するとそこには大きなIBM社のPCが並んでいました。先生はかなり年とった女性で温厚そうでした。先生は次に授業までにフロッピーディスクを購入するようにと告げました。このフロッピー今では見かけないですが、当時は5インチもありデータは300Kくらいしか書き込めませんでした。でも10ドルくらいしたと思います。当時はWINDOWSなんていう便利なものはなくMS-DOSというオペレーティングシステムの勉強でしたが、101では、教科書を読みながらコンピュータの歴史を勉強しました。歴史上初めてのコンピュータは中国で発明された「そろばん」だというところから、80年代まで進んでくるのが1学期の勉強です。フロッピーは時々PCでデータを入力するのに使った程度です。この授業も先生の英語が聞き取りやすく無難に進めました。

そして、一番難しそうなビジネス。私はビジネスメジャーで卒業したかったので、一番基本な101のクラスを思い切って取ってみました。教授はMr.レッカー。鷹のような顔をした男性で、なかなか迫力がありました。案の定、初回から先生の言っていることが全く理解できませんでした。そして先生は次々に生徒を指して答えを求めるのです。私はなんとかさされないように1時間30分ひたすら下を見ていました。先生と目を合わさないためです。これは辛い授業でした。はじめてついて行けないと思いました。次回のビジネスのクラスが不安で仕方がなかったです。ただ、ドロップするまでは、1ヶ月間の猶予があったのでもう何回か受講を続けてみようと思いました。このくらいで諦めていては卒業できないと自分に言い聞かせましたた。しかし、この後とんでもないことが次々と起こっていくのでした.......

大学を2日終えてみて、なんとなく生活のペースができてきました。ビジネスはかなり手こずりそうですが学校が終わったら学校のライブラリーで復讐と予習を終え、家に帰る。家では家族が帰ってくる前に食事をすませ、20時には自分の部屋に戻る。そして翌日の予習を再確認したら自分の時間です。本を読んだりテレビを見たりしました。

だんだん生活に慣れてきて、アメリカ入国当初の緊張感はなくなってきていました。


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14. 1st セメスター 大学初日 [ニューヨーク州立大学]

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大学初日は、朝から緊張していました。はたして日本で時間をかけ勉強してきた語学が本当に役に立つのだろうか。日本を離れてから一番英語がわからなかったのがJFK空港のイミグレーションでした。その他はなんとなく意味が分かるしこちらの話も皆耳を傾け理解してくれました。このレベルでアメリカの大学の授業について行けるのでしょうか。

朝、早めにキャンパスに着いた私はカフェに行ってみました。オリエンテーションやレジストレーションで何回かきていましたが、朝はブレックファースト・メニューを提供していることに気づきました。何も食べずに登校したので早速食事をしてみることに。そこには固そうな丸いパンが並んでいました。私はこれをパスしました。このパンはベーグルというユダヤ人の食べ物で、大変美味しいのですが、当時の私は全く興味を示しませんでした。私が心奪われたのはイカリングらしきフライとご飯の上にカレーがかかっている食べ物でした。イカリングだと思ったものはオニオンリングです。初めてこれを注文し、口にしたときは、かなり落胆しました。烏賊だと思ったのが細いタマネギです。カレーライスだと思ったものはタイ米のようなパサパサした米にチリソースがかかっているものでした。その時はこれは美味しいと感じました。今になってみるとベーグルやオニオンリングはアメリカで出会った美味しい食事となっています。逆にチリソースライスは今食べるとかなりまずいです。このあたりの勘違いの味覚は当時の私が未熟だったのか緊張していたからなのか未だにわかりません。でも今となっては良い思い出です。

この日の授業は3つ。月曜・水曜・金曜のクラスで1時間のクラスです。

腹ごしらえをして、いよいよ初めての講義であるBiologyのクラスに行ってみました。このクラスは留学生用のクラスだったため、学生はアメリカ人以外でした。日本人は私一人でしたが、同じ外国籍の生徒だったのでちょっと安心しました。先生は長いひげをはやした年配の男性。「タイムボカン」の誘拐された博士に似ていました。先生は淡々とクラスの目的とスケジュールを説明し始めました。生徒がアメリカ人ではないので比較的ゆっくりと話をしてくれ、これには救われました。なんとかついて行けそうだ。しかし、授業1回でテキスト20ページ進むというのです。これは予習が大変だなあと思いましたが、頑張れそうでした。

次の授業は英語のクラス。語学学校に行ってみました。語学学校といっても校舎が独立している訳ではないので、普通の大学の講義に見えますが、教室に入ると外国人ばかりという状態でした。先生は年をとっているようですがとても美しい女性で、どちらかというと幼稚園の先生のように丁寧に英語を話してくれました。あまりに丁寧に説明するのでちょっと馬鹿にされているような気持ちになりましたが、このクラスは十分やっていけると思いました。ただ、授業中何回もさされ、その度に発言するのが辛かったです。日本人はこのようにディスカッション形式の進行は苦手です。間違うと恥ずかしいと思ってしまうのです。ただ、中東から来ている生徒はとても上手とはいえない英語でどんどん発言していました。中東の生徒を見て、私は驚きました。

おかしかったのは、州立大ならではなのですが、入学試験である成績を取得できなかったアメリカ人の学生が私のクラスに数人混じっていたことです。アメリカ人でも国語の学力がないとこのクラスに入れられてしまうのです。なんとも合理的なシステムです。しかし、語学学校に入るようなアメリカ人は、もともと勉強が得意な訳ではないようで、高校を卒業し目的もなくとりあえず州立大に来ているような状態だから、彼らアメリカ人は数週間のうちに大学を自主退学していきました。

数学は予想通り楽勝でした。まわりは全員アメリカ人だったし、先生の言っていることの50%も理解できなかったのですが、何をやっているかは把握できました。はじめは分数のかけ算。こんなの簡単すぎてすぐにできます。しかも間違うことはないのです。アメリカ人はかけ算が得意ではないようで、とても苦労していました。この授業はこの後、物凄いスピードで進み、因数分解やルートの計算までカバーされることになるのです。アメリカ人の学生の1/4くらいは途中でドロップ(自主的に授業を受けることを放棄する)してしまいました。確かにもし自分が何の知識もなくこの授業を受けていたら着いて行けなかっただろうなあと思う程早いペースで進んでいきました。

初日の授業はこれで終了。緊張していましたが、ドロップアウトするような心配がないので安心しました。帰りはバスで帰ってきました。15時には家についていたと思います。でもとても疲れていて暫く寝てしまいました。シシリーが帰ってきたドアの開く音で目覚めたのは19時頃でした。

彼らが夕食の準備を始める前に食事をするという約束をしたのを忘れていました。慌ててキッチンに行き、とりあえず冷凍の鰻をボイルして食べました。ご飯は、こちらで買った炊飯器で炊きました。私のホストファミリーはうな丼に興味を持っていました。当時は日本食ブームなどアメリカには到来していなかったのです。私は辞書で「鰻」を調べました。ellというらしい。「イール!」と指差すと、幼稚園児のリチャードは泣いてしまいました。彼らにとって鰻はへびみたいなものなのでしょう。


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12. レジストレーション [ニューヨーク州立大学]

いよいよ大学の授業が始まる時期になってきました。ニューヨークに到着し、予期もしなかったアフリカンアメリカンの家庭にホームステイをさせられ、一人でこれからの生活に必要な準備をしてきましたが、いよいよ本来の目的である大学での勉強がはじまるのでした。

私の入学した大学はSUNY ( State University of New York ) システムというプログラムに加盟しているので、州内に50校ほどあるニューヨーク州立大学の各校と同じように学校運営が行われています。アメリカの大学の学期制は1年を3つにわける「セメスター」と4つにわける「クォーター」がありますが、SUNYシステムはセメスターでした。そして授業料は、12単位まで州の住人は2000ドル、州外の生徒は4000ドル程度です。

学期が始まるの前には、セメスター毎に自分が受ける授業を選択し学校に登録する必要があります。これがレジストレーションです。大学は、これからはじまるセメスターで開かれる講座一覧を生徒に配布します。生徒はこの一覧と各授業の解説と教授の名前を見ながら、自分の授業を登録するのです。人気のある講座は、倍率も高いので、早めにレジストレーションを行わなければなりません。

私の目標はニューヨーク州立大学を卒業することではなく、ここをステップとしてもっとレベルの高い大学へトランスファーすることです。だから、ここでなんとかCを取って卒業出来ればOKというわけではないのです。日本でドルトンスクールの先生に指導された通りニューヨーク州立大の校長先生の推薦を貰わなくてはならないという目的があります。そのためには、この大学で取得する授業の成績の平均をA-以上にすることが必要になります。

私は、初めての学期ということもあり無理をせずまずは12単位(4講座)の取得をしようと決めました。語学が完璧ではない状況で、いい成績を取るためには得意科目から攻めなくてはなりません。そこでまずはMath101、Biology 101、Computer 101、ちょっとリスキーなBusiness101を選びました。そして語学学校2時間を受講することに。数学は英語がわからなくても数式を解けばいい。生物はちょっと大変そうだが体の部位の名前や生物の基本的知識を英語で覚えるのは面白そうだ。コンピュータはきっとこれから必要になるだろう(当時はWindowsもなくDOSのプログラミングを勉強した)。語学学校は受けないといけないので仕方がない。あと、体育を1単位とった。週に1時間テニスをすればよい。これでちょうど12単位となる。

SUNYの場合、自分の学部は大まかに決めておくのですが、学位取得に必要な講座が決まっているのでそれを自由に選択すればよいシステムでした。例えば、頑張って1セメスターで40単位とって早く卒業することも可能です。逆に1セメスター3単位(パートタイム)とり、10年くらいかけて卒業する人もいます。公立大学なので、時間と予算によって様々な機会を生徒に与えてくれるのです。だから途中で学部を変更することも可能です。私はビジネス学部を専攻し、最終的にはビジネスの学位を取得したいと考えていたのですが、今の時点で絞り込むことはせず別の学部でも必要になる講座を取ることにしました。これらをリベラルアーツ(必修科目)のクラスと呼びます。当然リベラルアーツより専門科目の方が難しい内容になるため、ほとんどの生徒は初めの1年はまずリベラルアーツをとるようです。

選んだ講座は、電話でレジストレーションをします。これが結構厄介でした。英語で受けたい講座の番号を聞かれそれをプッシュホンで押して行くスタイルです。電話で英語が聞き辛いのでちゃんと登録されているのかが不安でした。今ならネットでちょいちょいと済むことですが、これがまだインターネットが普及する前の最新システムでした。

さて、いよいよはじまる講義はどんなことになるのやら....

88/01/14
2017.01.10 Rev.


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11. 日本人学生達 [ニューヨーク州立大学]

私が通うことになったニューヨーク州立大学には、8人の日本人がいて、さらに私と同時期に5人が入学してき留学ました。合計13人もの日本人が小さな大学にいるというわけです。

これには驚きましたが、西海岸の大学に入学した河合塾留学予備校の仲間と電話で話をするとさらに驚かされました。西海岸の大学には数百人規模の日本人が各学校にいるという。さらにカンザス州の田舎にいった友人・タカに聞くと、東京から飛行機を4回乗り継いで到着した人口1000人程の街にある大学にも数人の日本人がいるというのです。ノースカロライナの森の中にある大学に入学した友人・関田も日本人が大量にいるという連絡をくれました。ということは、アメリカには相当数の日本人留学生がいることになります。
それに比べると、比較的都会に近い大学に日本人が10人強というのはまだいいほうなのだろうか。

私の留学の目的は、きちんとした知識を身につけ目標となる職業に就くことなので、日本人と徒党を組むつもりは毛頭なかったのです。だからできるだけ日本人が少ないとおもわれた大学に入学したのでした。私は挨拶程度で積極的に日本人コミュニティには加わらないようにしました。

でも、小さい学校なのでいろいろと人柄が見えて来ます。私が入学した時に出会った日本人を何人か紹介してみようと思います。

山崎氏は、実はこの学校の生徒ではない。彼は大阪出身で高校卒業後ニューヨーク州立大に入学した。非常に勉強熱心で短期間で2年制の単位を取得してしまった。そして、PACE Universityにトランスファー(編入)し、今はPACEの3年生だ。卒業までは長くてあと1年。実家は花屋さんを営んでおり、きさくで冗談を言う先輩。彼にはアジア系アメリカ人の彼女がいて、そのおかげで英語はとても流暢だし、スラングも相当知っている。酒と釣りを愛する人で時々それに飲まれてしまうという愛すべきキャラクターでもある。彼女の家の関係で彼は編入した後も、この街に住んでいた。だから時々自分の母校のカフェに現れた。彼には、アメリカに来てわからないことを沢山教えてもらった。そして今も交流がある。

松崎氏は、1年前にこの学校にやってきた。実は大阪の有名大学を卒業しているのだが、理由があってこの学校で勉強していた。彼の実家は大阪で大きな宝石店を営んでいた。ここロックランド郡内には、ユダヤ人が住む町があり、そのユダヤ人のおおくはマンハッタンで宝石商をしている。松崎氏は、アメリカの宝石業界を視察する意味でこの学校に所属していたのだ。大柄で声が大きく、いかにも大阪出身の人懐っこいキャラ。日本人との付き合いの悪い私でも、ときどき食事に誘ってくれた心優しい人でもある。

目白氏は、松崎氏と同じ時期にやってきた。彼の実家は東京で宝石の加工業を行っていた。よって、松崎氏と同じルートと目的でこの学校に通っている。目白氏と松崎氏の実家は仕事の関係があるようで基本的にこの2人は兄弟のように行動を共にしていた。目白氏はテニスが大変うまく、ひとりでテニスコートに行って、知らないアメリカ人に試合を挑んでいた。そしてテニスを通じて沢山の友達を作っていた。

鈴木さんは、当時40くらいのおばさんで、子供を連れて入学してきた。彼女は、若い頃アメリカで暮らしていたそうだが、その後日本に帰り結婚。しかし幸せな結婚生活も長く続かず離婚して、子供とともにニューヨークに来たそうだ。どんな目的があるのか最後までわからなかったが、子供は地元の学校に通わせ、彼女は授業を受けていた。おばさん特有の群衆意識があり、やたらと日本人の学生を手なずけてコミュニティを作ろうとしていた。そして、週末になると日本人で集まり、悪口やうわさ話で盛り上がっていたようだ。集まるのはフルタイムの語学学校生徒達で、いつも日本語で群れているので何年経っても語学学校を抜けることは出来なかった人たちだ。私は、彼らとは距離を置き、学校で見かけると挨拶はするよう心がけた。

箱山は、私と同じ歳で東北出身のきさくな男だった。ずいぶん昔から学校に通っていたようだが、ずっと語学学校の一番下のクラスに所属していた。卒業の見込みはまずないといってもよかった。ただ面倒見がとても良く、困っている人がいると必ず助けてあげていた。ボロボロの車に乗っていて、誰でもかまわずバスを待っている人を乗せてあげるような気のいい男だ。彼は、なんでこの学校にいるのか聞いたところ、結構驚かされる話をはじめた。実は、彼は元レスリングの選手で将来はオリンピックの選手として有望だったらしい。しかし、今でいうところのドーピング検査にひっかかり選手生命を終えたそうだ。そしてそのとき接種した薬がもとで様々な障害を抱えていた。見た目にはそんなことは全く感じさせない明るい男だった。彼は、日本の学校を追われ、仕事にも就けず途方に暮れていたとき、ニューヨークのレストランで働かないかという誘いを受ける。そして渡米するのだが、雇われたレストランはとんでもない劣悪な環境で、ビザもなく不法就労を強いられた。パスポートもレストランに没収されコピーしか持っていなかったのだが、そのレストランから逃亡し、当時ロックランドの街にひとつだけあった日本食レストランに匿わられていたのだ。

江藤は、私と同時に大学に入学した背の高い物静かな少年だった。彼も東北出身で、箱山とは出身地が近いということで仲が良かった。彼と私は同時期に入学して、英語の学力も学部も一緒だったので、よくクラスが一緒になった。ただ、彼も目的を持って勉強をしているので、意味もなく一緒にいることはなかった。江藤と私は適度な距離を保ちながら良い関係を築いていた。

その他にも、ポルシェを買って学校に一度もこない人や、学校に10年近く通っている元OLや、有名人の子弟など個性的な日本人がいました。そして私が在籍していた間にも沢山の日本人がやってきて去っていったのです。

アメリカの大学の日本人はどこも似たような行動パターンのようです。
1)目的意識を持ち、きちんと卒業していく学生。概して日本人とはどっぷりつきあわない。
2)目的がなく、日本の大学に入れなかったので、留学してきた学生。基本的に日本人とコミュニティを築く。
3)30代目前で、日本でもぱっとせず語学力を身につけたいため渡米する女性。
4)日本で家庭が崩壊したり、法を犯したりして、生きる道をアメリカに求めた人々

皆それぞれの生き方があるので、肯定も否定もしませんが、目的意識を持って留学したはずの学生でも4年制大学を卒業できるのは、20%くらいです。よって、留学を成功させるのは大変リスクが高いといわざるをえません。

これから5年で、さらに面白い日本人学生と出会うことになりますが、これはまた追って紹介しようと思います。


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10. 学力試験を受ける [ニューヨーク州立大学]

大学に入学するには、いくつかの関門がありますが、ニューヨーク州立大学に入学するには以下のようなハードルがありましたた。

<書類での出願@ Tokyo>
大学に、学校案内と出願書 (Application Form) を送ってもらうべく手紙を書き、数週間後に書類を入手します。私は、かなり沢山の大学に依頼しました。とはいっても、適当に送るのではなく、送ってもらった大学の説明書をよく読み、自分の行きたい場所や行きたい学部などある程度絞り込みました。アメリカには認可されている大学だけでも2万校あるといわれています。私は、東海岸(ボストン〜ワシントンDC)のビジネスやエンターテイメント系学部のある4年制大学と2年制大学約20校から書類を送ってもらい、カウンセラーと相談して5校に出願しました。このとき必要になるのは、出願書類、TOEFLのスコア(通常550点以上)、高校の成績、自分で書いたエッセイ、推薦状、留学資金照明のための銀行の残高証明などです。

この出願に関しては、今後の留学の出発点になるので、十分考え、様々な経験者や両親、先生、カウンセラーと相談をすべきです。私の場合、出願したすべてから合格通知を受け取ることができました。

<大学での学力試験>
アメリカの大学に入学しても、誰もが正規の生徒として認められる訳ではありません。アメリカ人も含め大学では入学後に基礎学力試験を受ける必要があります。東海岸の州立大学は英語と数学を受けることが多いようです。ここで規定のスコアを取れなかった生徒は、付属の語学学校や数学の予備学校に通うことになります。おおくの日本人留学生はここではじかれ正規の生徒ではなく大学付属の語学学校に入学することになる現実があります。大学にとって語学学校は重要な収入源。だから大量の留学生を受け入れるのです。

私の場合、ニューヨークに来てやっとおちついた6日目にこのテストを受けました。数学はおそらく満点だったと思います。分数の計算など日本では小学校レベルのテストでした。英語は結構難しく感じましたが、この程度の語学力がないと授業にはついて行けないだろうと思います。

実は、私はここで大きなミスを犯していました。というか自分の能力を過信しすぎていたようです。翌日のテスト結果は数学はパスしたものの、英語は語学学校行きとなってしまったのです。これをしないために"日本で十分勉強をしてきたはずだったのになんていうことだ!"自分の実力のなさにがっかりした、と同時に将来のビジョンが崩れていきました。

早速、学校付属の語学学校へ行き、オリエンテーションを受けました。そこには、いままでキャンパスでは見かけなかった留学生が沢山いました。日本人も結構いるようでした。"あぁ、このままだといったいいつ卒業できるのかわからない。"とかなり落ち込んでいると、私の後ろの席に日本人らしい青年がひとりで座っていました。「あのー、日本人ですか?」相手は「?」。彼は香港からやってきたフィリップという男で、私たちはそれから一緒に2年間授業を受けることになりました。フィリップは私よりは英語ができるようで、オリエンテーションの説明で私が理解出来ない部分は丁寧に説明してくれました。そして授業をとるためのレジストレーションを手伝ってくれたのでした。

実は、よく説明を聞いてみると、私は英語のテストはぎりぎりのところでパスしなかったようでした。私が入るのは6レベルある語学学校のクラスの中で一番上でした。フィリップも同じクラスでした。このクラスは、語学学校に通うのは週2時間で、残りは正規の学生と同じ授業を受講する権利が与えられていたのです。これは嬉しかったです。そして、次回の学力テスト(3ヶ月後)で、パスすれば正規の生徒になれることがわかりました。もし、次回の試験で成績が悪いと週2時間の語学学校の授業は受けなければならない。週2時間の時間的ロスと語学学校の授業料の金銭的ロスは痛いですが、フルタイムで語学学校に入ってしまったらロスはもっと大きかったです。とにかく1セメスターはがんばって、次のセメスター前にある語学テストをパスすればなんとかロスは挽回できるだろうと思いました。

フィリップは、将来カメラマンになりたいそうで、この学校で2年勉強した後はマンハッタンの芸術大学に編入するという野望を持っていました。話も楽しいし気も合いそうなので、オリエンテーションが終わっても大学のカフェで暫く話をしました。

1988/01/12
2006/03/07 Rev.


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