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19. ケーブルテレビの魅力 [アメリカ生活情報]

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ニューヨークでの学生生活もはじまり、生活のペースも安定してきた頃、私はケーブルテレビを引くことにした。日本にいた頃からアメリカにはCATVというものがあってチャンネル数は50以上あると聞いていたのでとても楽しみにしていました。

私はまずテレビを買いました。当時25インチくらいのテレビをWIZという家電量販店で購入しました。当然ブラウン管のテレビです。価格は日本と比べるとはるかに安かった。確か300ドルくらいだったと思います。同時にVHSビデオデッキも購入、これは200ドルくらいでした。

ホストファミリーに承諾してもらいケーブル会社に電話すると、翌週には工事にきてくれることになりました。それまでは、簡易アンテナで地上派放送を見たが見ることのできるチャンネルは数局であまり面白い番組は放送していなませんでした。しかし、朝の日本語ニュースはかなりノイズが入りますが、なんとか見ることがでました。

工事当日、家で待っていると、工事をする人がやってきました。まるで電気工事屋のような風貌の人です。彼は、どこからかケーブルを引っ張ってきて、私の住む2階の部屋に引き込もうとします。しかしケーブルが入るような穴はない。どうするのか見ていると、電動のスクリューで壁に穴を開け始めたのでした。これには驚いてしまいました。日本だと外観を気にしたり、空調の問題などで穴をあけるようなことはしないだろうし、開けるときは一言相談くらいするものです。おじさんは、なんのためらいもなくウィーンと穴をあけてしまったのです。そしてケーブルをするっと通して、セットトップボックス(STB)に接続、そしてテレビのスイッチをつけてチャンネルをチェックし始めました。確かにたくさんのチャンネルがモニターに映しだされました。

おじさんは、作業確認証にサインを求め、あっというまに帰って行来ました。

テレビは50どころか80チャンネル程あり、チャンネルをまわしても延々と違う番組が映りました。私はベーシックという50チャンネル程の基本パックと映画を中心とした専門局をオーダーしました。価格は1月35ドルくらいでした。テレビが映るのは嬉しかったのですが、壁の穴はとても不安でした。家族が帰ってきたら一応謝ろうと思い、家族の帰宅までびくびくしながらテレビを見ていたのを覚えています。

一番始めに帰ってきたのは、シシリーでした。彼女は、CATVがちゃんと映るようになったのか気にしてくれていました。テレビは映るが壁に穴があいたと説明すると、日本語チャンネルも映るといいね、みたいなことを言って去って行きました。どうやら壁に穴があいたり家の外側の壁にケーブルが張っていたりするのは全く気にならないようです。アメリカ人は大雑把だなあと強く思った瞬間でした。

このように、アメリカ人は概して大雑把です。日本人のように神経質な人は少なく、全体的に町もシステムもサービスも大雑把な感じがしました。これは、日本人からすると驚きがあり、時にはイラッと思うこともあるのですが、住んでいるとこの大雑把さが実に心地よくなっていきます。トイレなども日本ほど清潔ではありませんが、不潔なわけではありません。程よい感じがむしろ落ち着くのです。

話を戻しましょう。
CATVが接続されてから、毎日の生活が変わりました。朝起きると日本語テレビ(とても鮮明¥な画質でした)を見て、帰ってきたらMTVを見続けました。これで流行の音楽にはとても敏感になりました。当時はポーラ・アブドゥル、ジェネシス、スティングなどが人気でした。しばらくするとMTVよりVH-1というチャンネルのほうが面白いことに気づき、時間帯によってMTVとVH-1を見出しました。VH-1は、ターゲットがMTVより上で30代が喜ぶようなコンテンポラリーヒッツを放送していました。さらにCNNでニュースをチェックし、USAでクラシック映画を見て、HBOでヒット映画を見るようになりました。これは英語のヒアリングにとても役立ちました。

民放もがんばっていて、毎週土曜日にはサタデー・ナイト・ライブが楽しみだったし、夜の7時からはじまるジョパディーやエンターテイメント・トゥナイトは英語だけでなくアメリカの歴史や雑学の勉強になりました。

こうして、テレビで最新の文化と英語を学ぶすべを覚え、アメリカでの生活が楽しくなっていったのです。


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18. 買い物、日本人向け食料品店など [アメリカ生活情報]

アメリカで生活をはじめるにあたり、買い物をします。生活必需品や食料品は近所のスーパーマーケットを利用し、衣料品はモールなどで買います。日本人として欲しいものは、日本人向けのスーパーまで買い出しにいくことになります。ニューヨークの北部で生活を始めた私は以下のように買い物をしました。

<食料品や生活用品など>
ホストファミリーが住んでいたSpring Valleyの近くにはいくつかスーパーマーケットがありました。スーパーといっても日本のようにSEIYUやA-COOPといった中規模な商店が町の中にあるわけではありません。ルート59という郡を東西に貫く大きな幹線道路の脇に大きな駐車場と共にそびえ立っています。車は少なく見ても300台は駐車可能です。駐車場の奥に大きなスーパーと日曜大工用品屋さんやテイクアウトのピザ屋、中華料理屋、ファーストフード店が連なっています。場所によっては駐車場内に独立してバーガーキングやアウトバック・ステーキハウスなどが立っています。このような商業施設は、基本的にデイリーユースに関わる商店が集まっているようで、3Kmおきくらいに点在しています。よって、おそらくこれら商業施設の商範囲は周囲数キロの住人なのでしょう。

Spring Valleyには、PathmarkやShopriteといったスーパーマーケットを中心にこれら施設がありました。私がよく行っていたのは、Pathmarkで、店をゆっくり見ていると2時間くらいかかる程大きかったです。そして24時間営業なので、夜でも買い物ができるのです。ここでは、パンや卵、牛乳などを買いました。もちろん、一通り買ってみたのですが、冷凍食品は味が悪く、果物や魚介類は日本と比べるとかなり鮮度が劣ります。

<衣料品など>
衣料品は、主にモールで買いました。モールは、巨大なショッピングモールで、日本でいうAEONみたいな場所です。
衣料品の入手方法は人によってかなり異なると思います。もし、安ければいいのならディスカウントストアみたいな店でとても安く購入が可能です。Tシャツは5ドルくらいで売っています。しかし、日本人でそれなりにきちんとした格好をしたい学生の場合は、モールがお勧めです。最近では日本でも知られているGAPやBanana Republicなどがどこのモールにも入っています。これらも凄く高いわけではないので、アメリカ人の学生はこれらのブランドをよく着ています。最近ではA&Bなど、もう少しデザインの良いブランドが人気のようですが、私が学生だった頃は皆GAPを着ていました。モールでは靴や下着なども購入できます。

学生は、モールキッズと呼ばれていて、暇さえあればモールで遊んでいます。日本でいうと地方の高校生たちがAEONに行くようなものです。モールでは、ウィンドーショッピングを楽しみ、フードコートで食事をしています。中には映画館もあるので、映画を見れば1日楽しむことができるのです。

<日本食料品店>
アメリカでは、大都市の近くに必ず日本人用の食料品店があります。1990年初期のニューヨークでは、YAOHANがブームでした。それまでは大道などとても小さな店が数店点在する程度だったのですが、YAOHANは、ニュージャージーのエッジウォーターに大きな店を構えました。私がニューヨークに渡ったちょうど同時期にYAOHANはオープンしました。当時は、毎週、土日になると、北はボストン、南はワシントンDCから日本人はYAOHANを目指して集まりました。よって、週末のエッジウォーターはYAOHAN渋滞が起こっていました。日本はバブル真っただ中。沢山の日本人駐在員と留学生が押し寄せたのです。そして、日本食料品を何百ドルも購入し、そのあと、フードコートで寿司やうどんなどを食べ、紀伊国屋書店で雑誌を買って帰るのです。

私は、YAOHANにとても驚きました。アメリカでここまで徹底的に日本のスーパーを再現したことに日本人の凄さを感じたのです。そしてこんなにもおおくの日本人がニューヨーク地域に住んでいるんだというのもびっくりしました。皆高級車に乗ってきています。今にして思えば、バブルの頂点だったので、あのような特異な光景があったのでしょうが、学生だった私にはそれらがキラキラと輝いて見えたのです。

日本人たちは、ここで山のように買い物をしていましたが、私にはそんなお金はありません。私が買う商品は決まっていました。お米と味噌とマヨネーズです。これは、YAOHAN以外では購入できない商品です。そして、夏は冷やし中華を買いました。私の精一杯の贅沢でした。

2005年、YAOHANは、皆さんご存知のようにバブルと共に崩壊し倒産してしまいました。現在はMITSUWAが営業を引きついでいます。ただ、週末になっても90年代のような大混雑は起こりません。ニューヨーク近郊に住む日本人が減ったのでしょう。そのかわり韓国人のお客さんが増えたように感じます。店の周辺は90年代は空き地でしたが、今は開発が行われ住宅地や商業地として開けています。


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17. 歯科治療 [アメリカ生活情報]

2005年9月6日、最後の親不知を抜いた。これで4本あった歯は全てなくなった。思えばはじめの1本目を抜いたのは10年以上前のことだ。今でも数日前のように思い出す。今回は歯にまつわるお話です。

大学2年の夏。学校から帰ってきて、近くのSpring Valley Highの校庭でマラソンをしていました。気持ちよく走っていると、突然顔面に激痛が走ったのです。物凄い痛みとともに気が遠くなってきました。これはまずいと思い、ゆっくりと歩きながら自宅に戻りました。

とりあえず家に常備してある痛み止め薬を飲み、ゆっくりと考えてみると、顔が痛いのではなく歯が痛いというのがわかってきました。そこで、歯科医を探してみることにしました。近くに歯科医は沢山あったので、どこに行くべきかさらに調べたところ、日本人向けの「ニューヨーク便利帳」には、こまかな注意書きが記されていました。それは歯科医に行くときのことで、保険がきかないというものでした。知らずに歯科治療を受けると日本では考えられない治療費を請求されると書いてあったのです。

しかし、この痛さは我慢できません。日本の実家に電話すると、仕方がないから金額はいいので歯科医に行くよう言われました。早速「ニューヨーク便利帳」に載っていた日本語の通じる歯科医の中から一番近い歯科医院に電話してみました。そこは、日本語のわかる歯科衛生士がいるそうで、歯科医はアメリカ人でした。とりあえず翌日夕方にアポイントを入れ、行ってみることにしました。

歯科医はニュージャージー州フォートリーのちょっと北にありました。受付に行くと日本人の女性が明るく対応してくれました。なんとこの女性はSpring Valleyに長く住んでいて息子さんはSpring Valley Highを卒業しているのだそうです。自分の家の近くに日本人が住んでいたなんてとても驚きました。そんな世間話をしてすっかり打ち解けてから治療がはじまりました。

激痛の元は前歯のすぐ隣の歯で、歯の裏側が虫歯になっていました。痛みを感じるということは既にかなり虫歯が進行しているということで、治療はかなり難しいといわれました。難しいというのは治療に費用がかかるということです。さらに歯の裏を治療するテクニックが自分にはないと歯科医は言ってきました。

かなり大変な虫歯なんだなあ、と思い治療を終えると、歯科衛生士がある提案をしてくれました。ここの歯科医に頼むとどう考えても10,000ドル以上かかるので、それだったら日本に帰って治療した方が安いし安心だ、と。確かに日本に帰るにはエコノミーで往復1,000ドルくらい。治療費は数千円です。とりあえずの治療はしてもらったので痛みは落ち着きましたが、しばらくするとまた虫歯が進行して痛みだすです。

私は日本の両親に電話して来週帰ることを告げました。ラッキーなことにちょうどこの時期は学校が休みでした。私は秋のセメスターがはじまるまでにニューヨークに戻ってくれば良いのです。時間は1週間ありました。すぐにチケットを買い機上の人となったのはいうまでもありません。

日本に帰るとすぐに治療に向かいました。高校の先輩が営んでいる歯科医に行ったのですが、虫歯はそれほど大変なものではなかったようです。ただ、神経を抜きそれなりの治療を行話なければなりません。両親は突然の帰国が嬉しかったようで料理を沢山作ってくれるし、いろいろなレストランに連れて行ってくれたのですが、歯の治療をしたばかりで味はよくわからなかったです。

歯科医は、今回の治療より親不知のほうが心配だとアドバイスしてくれました。特に下の2本は歯茎に埋まっているので抜くのは大変だろう、と。

歯科医の予想は的中します。ニューヨークに戻り通常の生活を送っていると、奥歯が痛みだすのです。ただ激痛というわけではなくムズムズする。あぁ、やっぱり親不知だ。でも今回は一刻を争う訳ではないので、次の夏休みを待ちました。帰国する期間は、またまた短く10日間でした。歯科医に行くと時間がないから初日に1本、1日あけてもう1本を抜くと言うのです。さらには、親不知が歯茎に埋まっているのでメスで切開するという。それを聞いて恐ろしくなりましたが、時間もないので仕方がありませんでした。それからの1週間はかなり辛かったです。両端の歯が抜かれた訳で、食事が出来ない。リスのように前歯でものを噛むしかないのです。そんなことはおかまいなしに両親は沢山料理を作ってくれ、話題のレストランに連れ回すのでした。気持ちは有難いのですが、このときばかりは家でゆっくりしたかったです。

結局ニューヨークに戻る前日に2本の抜糸を終了しました。まだ痛かったのですが痛み止めを渡され慌ただしく日本を発ちました。

私の担当医は今思えばなかなかの名医でした。激痛が走った前歯も歯茎に埋まった親不知も見事に、さらに短時間で治療してくれたのです。それ以降、前歯も親不知跡も特に問題はありません。性格も温厚で、患者一人一人と対話して治療方針を決めていました。しかし、留学を終え日本に戻ってくると、まだ30代前半だった先生が癌で亡くなっていました。とてもショックでした。今は亡き先生が治療してくれた前歯は今後も大切にしていきたいものです。


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16. 自動車購入 [アメリカ生活情報]

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毎日バスで大学に通い、バスで帰宅する。買い物もバス。でもバスは1時間に1本程度しかなく、かなり不便でした。父親からはアメリカで免許を取得し車を買うように言われていましたが、こちらに来てみると一刻も早く車が必要だと痛感させらました。アメリカではサンフランシスコやニューヨーク、ボストンなどの町中にある大学を除いては、ほとんどのところで交通が不便です。よって、ほとんどの大人が車を所有し車で行動しています。私の行く大学にも巨大な駐車場があり学生のほとんどは車で通学していました。

時間を見つけて車の免許を取得した後は、いよいよ車を購入することになります。車の購入にはいくつかの選択肢がありました。

1)新車購入
新車を購入する最大にメリットは新車なので故障する可能性が非常に低いということだ。アメリカでは冬、田舎で車が壊れたら死を意味する。よって、故障の可能性が高い中古車と比べるととても安心だ。しかし、価格が高い。どんなに安くてもアメリカ車で10,000ドル、日本車で20,000ドルはした。

2)中古車購入
アメリカでの中古車市場はとても大きい。当然さまざまな車が選べるし、価格も納得できる。しかし故障が多くなる。中古といってもアメリカの中古車は50,000 Mile 走っている車なんて沢山ある。あまり走っていない中古車は市場に出回っていない。このあたりのリスクをどう考えるべきか難しい。

3)日本車
当時、日本車は東海岸でも受け入れられて人気があった。やはり壊れないというのが一番の人気だ。よって、セカンドカーとして日本車を買い求める人がおおく、Civicやカローラが物凄く売れていた。ちょうど私がアメリカで車を購入した頃は、日本車勢は高級車の販売も手がけるようになり、TOYOTAは「レクサス」というブランドを立ち上げた。HONDAは「アキュラ」を立ち上げスポーツ指向の高級車を投入し、NISSANは「インフィニティ」というブランドで日本的な高級感を売りにしていた。これら日本勢は後に大成功し、200年現在ではメルセデスやBMWを追い越している。日本車に一貫してあるイメージは壊れない。使いやすい。ということ。でもアメリカ車と比較すると高いのである。

4)アメリカ車
当時のアメリカは、日本車勢にシェアを奪われ、ちょっと感情的になっていた。テレビではクライスラーのアイアコッカ会長が自ら買収したランボルギーニ(イタリア)のカウンタックに乗ってきて「我々が一番」と言い、コピーではアメリカ車を買いましょうと宣伝していた。しかし、実際にアメリカ車に乗ってみると全てがダメだった。エンジンは旧態然とした構造でうるさくて燃費が悪い。デザインは雑で室内はプラスティック。買って数ヶ月するとパーツがとれてしまうような有様だった。これでは売れない。あえてアメリカ車を選ぶのは、愛国心が高いか、車に関する知識がまったくないかであった。

5)ケーススタディ
日本人の先輩松崎氏は、はじめFordトーラスの新車に乗っていた。しかし、信号で停車したら目の前をタイヤが転がっていた。なんだろうと思った瞬間、乗っていたトーラスが傾いたのだ。そう、転がっていたタイヤは自分の車のものだったのだ。アメリカ車を新車で購入してもタイヤが外れる(実は軸が折れていた)のに驚いた松崎氏は、自分が日本でためた貯金でHonda シビックの新車を購入し、日本に帰国するまで乗っていた。故障は一度もなかった。

同じく山崎氏は、なんとヒュンダイ自動車に乗っていた。新車である。当時はアメリカ市場に新規参入した韓国の自動車メーカーだった。しかしこの車、意外とよくできていて大きなトラブルはなかった。そうはいっても内装はひどいもので、彼が帰国するまでには内部のパーツはかなりの部分はがれ落ちていた。車としての性能は問題なかった訳だが、あの内装を見るとちょっと気が引けた。現代自動車は、三菱の技術供与を受け、後にどんどんクオリティを改善していった。今ではそれなりの評価を得ている。しかし2005年時点でも平気でメルセデスやBMWのデザインをコピーしている。このあたりの独自性のなさには呆れるが、相変わらず故障は少ないらしい。

目白氏は、アメリカ車、それもサルーンに乗っていた。アメリカに来たのだからアメリカ車に乗ると言っていたのが印象的だった。彼の車は細かなトラブルを起こしていたが、こまめに工場に持って行きコツコツ直していたので、大きなトラブルには巻き込まれなかったようだ。ただ、目白氏は修理に相当費用を払っていたし、修理に入ると松崎氏に送り迎えを頼んでいた。

上記のような要因を鑑み、自分なりに結論を出しました。

それは、日本車ディーラーで新古車を購入するというものです。試乗車として使われたあまり走っていない中古車を買うのです。これにより故障しない日本車を新車よりも安く買えると気づきました。当然中古車よりは高いですが、後での故障や修理代のことを考えると、ちょっと高くても結果はむしろ安いと思いました。

私は、日本車ディーラーを見て回りました。その中でいい物件がいくつかありました。結局私はHondaのプレリュードを19,000ドルくらいの価格で購入しました。本命だったシビックは新古車の在庫がありませんでした。このプレリュード、購入時は13,000 Mile走っていたのですが調子は良かったです。プレリュードは私がアメリカに滞在した5年間、行動を共にして帰国時まで全く故障せず100,000 Mile走りました。私の購入時の予想は見事に的中し、修理代もかからず最終的には初期投資は回収できると言っていい程使い倒しました。さらにこの車、5,000ドルで売れたのです。

アメリカ留学をして車を購入する場合、価格の問題からかなり古い中古のアメリカ車に手を出してしまう人がおおいですが、何年滞在するのか、どのくらい車を使うのかなど十分に検討して購入することをお勧めします。

アメリカに着いてから3ヶ月後の4月21日から私の生活は一変します。車があることでここまで生活が変わるとは思いませんでした。この日以降、アメリカを去る日まで、赤いプレリュードは私の留学時代のバディとなるのです。


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15. 1st セメスター 大学2日目 [ニューヨーク州立大学]

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大学2日目は、コンピューターとビジネスのクラスでした。このクラスは火曜&木曜週2回、1回1時間30分のクラスです。

コンピュータのクラスは、実は楽しみでした。今までPCなんて使ったこともなかったのですが、機械は好きでした。クラスに参加するとそこには大きなIBM社のPCが並んでいました。先生はかなり年とった女性で温厚そうでした。先生は次に授業までにフロッピーディスクを購入するようにと告げました。このフロッピー今では見かけないですが、当時は5インチもありデータは300Kくらいしか書き込めませんでした。でも10ドルくらいしたと思います。当時はWINDOWSなんていう便利なものはなくMS-DOSというオペレーティングシステムの勉強でしたが、101では、教科書を読みながらコンピュータの歴史を勉強しました。歴史上初めてのコンピュータは中国で発明された「そろばん」だというところから、80年代まで進んでくるのが1学期の勉強です。フロッピーは時々PCでデータを入力するのに使った程度です。この授業も先生の英語が聞き取りやすく無難に進めました。

そして、一番難しそうなビジネス。私はビジネスメジャーで卒業したかったので、一番基本な101のクラスを思い切って取ってみました。教授はMr.レッカー。鷹のような顔をした男性で、なかなか迫力がありました。案の定、初回から先生の言っていることが全く理解できませんでした。そして先生は次々に生徒を指して答えを求めるのです。私はなんとかさされないように1時間30分ひたすら下を見ていました。先生と目を合わさないためです。これは辛い授業でした。はじめてついて行けないと思いました。次回のビジネスのクラスが不安で仕方がなかったです。ただ、ドロップするまでは、1ヶ月間の猶予があったのでもう何回か受講を続けてみようと思いました。このくらいで諦めていては卒業できないと自分に言い聞かせましたた。しかし、この後とんでもないことが次々と起こっていくのでした.......

大学を2日終えてみて、なんとなく生活のペースができてきました。ビジネスはかなり手こずりそうですが学校が終わったら学校のライブラリーで復讐と予習を終え、家に帰る。家では家族が帰ってくる前に食事をすませ、20時には自分の部屋に戻る。そして翌日の予習を再確認したら自分の時間です。本を読んだりテレビを見たりしました。

だんだん生活に慣れてきて、アメリカ入国当初の緊張感はなくなってきていました。


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14. 1st セメスター 大学初日 [ニューヨーク州立大学]

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大学初日は、朝から緊張していました。はたして日本で時間をかけ勉強してきた語学が本当に役に立つのだろうか。日本を離れてから一番英語がわからなかったのがJFK空港のイミグレーションでした。その他はなんとなく意味が分かるしこちらの話も皆耳を傾け理解してくれました。このレベルでアメリカの大学の授業について行けるのでしょうか。

朝、早めにキャンパスに着いた私はカフェに行ってみました。オリエンテーションやレジストレーションで何回かきていましたが、朝はブレックファースト・メニューを提供していることに気づきました。何も食べずに登校したので早速食事をしてみることに。そこには固そうな丸いパンが並んでいました。私はこれをパスしました。このパンはベーグルというユダヤ人の食べ物で、大変美味しいのですが、当時の私は全く興味を示しませんでした。私が心奪われたのはイカリングらしきフライとご飯の上にカレーがかかっている食べ物でした。イカリングだと思ったものはオニオンリングです。初めてこれを注文し、口にしたときは、かなり落胆しました。烏賊だと思ったのが細いタマネギです。カレーライスだと思ったものはタイ米のようなパサパサした米にチリソースがかかっているものでした。その時はこれは美味しいと感じました。今になってみるとベーグルやオニオンリングはアメリカで出会った美味しい食事となっています。逆にチリソースライスは今食べるとかなりまずいです。このあたりの勘違いの味覚は当時の私が未熟だったのか緊張していたからなのか未だにわかりません。でも今となっては良い思い出です。

この日の授業は3つ。月曜・水曜・金曜のクラスで1時間のクラスです。

腹ごしらえをして、いよいよ初めての講義であるBiologyのクラスに行ってみました。このクラスは留学生用のクラスだったため、学生はアメリカ人以外でした。日本人は私一人でしたが、同じ外国籍の生徒だったのでちょっと安心しました。先生は長いひげをはやした年配の男性。「タイムボカン」の誘拐された博士に似ていました。先生は淡々とクラスの目的とスケジュールを説明し始めました。生徒がアメリカ人ではないので比較的ゆっくりと話をしてくれ、これには救われました。なんとかついて行けそうだ。しかし、授業1回でテキスト20ページ進むというのです。これは予習が大変だなあと思いましたが、頑張れそうでした。

次の授業は英語のクラス。語学学校に行ってみました。語学学校といっても校舎が独立している訳ではないので、普通の大学の講義に見えますが、教室に入ると外国人ばかりという状態でした。先生は年をとっているようですがとても美しい女性で、どちらかというと幼稚園の先生のように丁寧に英語を話してくれました。あまりに丁寧に説明するのでちょっと馬鹿にされているような気持ちになりましたが、このクラスは十分やっていけると思いました。ただ、授業中何回もさされ、その度に発言するのが辛かったです。日本人はこのようにディスカッション形式の進行は苦手です。間違うと恥ずかしいと思ってしまうのです。ただ、中東から来ている生徒はとても上手とはいえない英語でどんどん発言していました。中東の生徒を見て、私は驚きました。

おかしかったのは、州立大ならではなのですが、入学試験である成績を取得できなかったアメリカ人の学生が私のクラスに数人混じっていたことです。アメリカ人でも国語の学力がないとこのクラスに入れられてしまうのです。なんとも合理的なシステムです。しかし、語学学校に入るようなアメリカ人は、もともと勉強が得意な訳ではないようで、高校を卒業し目的もなくとりあえず州立大に来ているような状態だから、彼らアメリカ人は数週間のうちに大学を自主退学していきました。

数学は予想通り楽勝でした。まわりは全員アメリカ人だったし、先生の言っていることの50%も理解できなかったのですが、何をやっているかは把握できました。はじめは分数のかけ算。こんなの簡単すぎてすぐにできます。しかも間違うことはないのです。アメリカ人はかけ算が得意ではないようで、とても苦労していました。この授業はこの後、物凄いスピードで進み、因数分解やルートの計算までカバーされることになるのです。アメリカ人の学生の1/4くらいは途中でドロップ(自主的に授業を受けることを放棄する)してしまいました。確かにもし自分が何の知識もなくこの授業を受けていたら着いて行けなかっただろうなあと思う程早いペースで進んでいきました。

初日の授業はこれで終了。緊張していましたが、ドロップアウトするような心配がないので安心しました。帰りはバスで帰ってきました。15時には家についていたと思います。でもとても疲れていて暫く寝てしまいました。シシリーが帰ってきたドアの開く音で目覚めたのは19時頃でした。

彼らが夕食の準備を始める前に食事をするという約束をしたのを忘れていました。慌ててキッチンに行き、とりあえず冷凍の鰻をボイルして食べました。ご飯は、こちらで買った炊飯器で炊きました。私のホストファミリーはうな丼に興味を持っていました。当時は日本食ブームなどアメリカには到来していなかったのです。私は辞書で「鰻」を調べました。ellというらしい。「イール!」と指差すと、幼稚園児のリチャードは泣いてしまいました。彼らにとって鰻はへびみたいなものなのでしょう。


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13. 自動車免許(ニューヨーク州) [アメリカ生活情報]

ニューヨークの片田舎での生活にも慣れてきて、学校がはじまるまでにしなければならないことがいくつかありました。ひとつは、大学の学力試験。この試験で正規の学生になれるのか語学学校の生徒になるのかがきまることになっていました。もうひとつは車の免許取得です。やはりアメリカの生活には車が不可欠で、買い物ひとつとってもとても不便でしたし、1時間に1本のバスもかなりいい加減な運行スケジュールだったので、早急に免許を取る必要がありました。

ニューヨークで車の免許を取得するには、まずドライビングスクールで講習を受けなければいけませんでした。4時間程、州の認可を受けた自動車学校で講義を受けるのですが、どこで受けるのかわからず途方に暮れました。ちょうど、日本から持ってきていた「ニューヨーク便利帳」を開いたらマンハッタンに日本人向けの自動車学校があるのを見つけることができました。早速問い合わせてみると、数十ドルで講義を受けることが可能だということがわかりました。ニューヨークに来てから、マンハッタンをじっくり見ていなかった私は、早速申し込みを電話で行い、2月11日(土曜)のクラスを予約しました。そして前日の金曜日にバスでマンハッタンに向かいました。金曜日はマンハッタンを観光し、翌日授業を受けるというスケジュールです。自動車学校はバスが到着する42Streetのポート・オーソリティ・バス・ターミナルから数ブロック南に下がったところにありました。

なかなか寂しいところで驚きましたが、ビルの中には日本人の先生と数名の日本人受講者がいました。講義はとても簡単なもので、アメリカでの運転の注意点や筆記テストの受け方などを的確に教えてもらいました。アメリカでの運転はマンハッタン内でない限りかなり簡単そうでした。ただ、筆記テストをパスした後は仮免許を貰い、自分で車を運転して行って路上試験を受けなければならないことがわかりました。そうはいっても車は持っていないし、免許がないのに車を購入することは出来ないという矛盾に陥り、策を考えなければならなくなりました。

講義が終了し終了証書を受け取ると、学校は、筆記試験のサンプルをくれました。実はこれは試験にでる問題と殆ど同じであることがあとからわかりました。次のステップは、住んでいる町の近くにある免許センターに行き筆記試験を受けます。

翌週、私は受講修了証書を持って免許センターに向かいました。免許センターは地元の人から「モータービークル」と呼ばれていました。場所はウェストハベストロー。学校で知り合った日本人の先輩に車で送ってもらいましたが、あまり治安の良いところではなさそうでした。そこで筆記試験を受け、満点でパスすることができました。合格と同時に仮免許を貰いました。

早速、レンタカー屋さんに行って仮免許を提出して車を借りようと思ったら、貸してくれませんでした。今考えるとあたりまえです。仮免許で車を貸す訳がないのです。でも「モータービークル」のスタッフは仮免で借りれるといい加減な発言をしたので、それを真に受けてレンタカー会社まで行ってしまったのです。

私は、自分の家に戻りニューヨーク便利帳を広げました。そこには、路上講習を行っている日本人の先生がいることが記されていました。すぐに電話すると、1時間20ドルで車の路上講習から路上テストまで面倒を見てくれることがわかりました。その場でお願いし、結局5時間程運転を教えてもらいました。

日本人の先生はとても穏やかな男性で、左ハンドルの運転のこつ、縦列駐車、3ポイントターンなどを論理的に説明してくれました。昼時には弁当を持ってきてくれたりして、当時毎日英語を使わなければならなかった私にとって精神的に助けられたのを覚えています。

ドライビングの路上テストを受けたのは、ニューヨークに来てから1ヶ月ちょっと過ぎた頃です。当日家まで迎えにきてもらい、先生とサファンの住宅街に向かいました。車は先生のもので、練習に使った車でした。

テストは、助手席に試験官が乗り込み、運転を指示します。時間にして10分程度で終了するのですが、テスト中はかなり緊張しました。私は一発で合格し、やっと正式な免許を取得することができるようになったのです。
ただ、みているとこんな簡単なテストにも関わらず、アメリカ人は結構不合格になっていました。殆どの人がアクセルを踏むと走る、くらいの知識でテストを受けているのです。こんな人が日本に来たら絶対運転できないなあと思いました。

その後、学校がない平日に私はハベストローの「モータービークル」に出向き、正式な免許証を取得する手続きを行いました。ここまでで使った金額は300ドルくらいです。

1週間後には、待ちに待った写真入りの免許証が送られてきました。アメリカではいろいろな場所で免許証の提示が求められます。ビールを買うにも、店に入るときにも免許証が必要です。免許が手に入ったこの日が、私にとってのアメリカ第1日なのかもしれないです。


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12. レジストレーション [ニューヨーク州立大学]

いよいよ大学の授業が始まる時期になってきました。ニューヨークに到着し、予期もしなかったアフリカンアメリカンの家庭にホームステイをさせられ、一人でこれからの生活に必要な準備をしてきましたが、いよいよ本来の目的である大学での勉強がはじまるのでした。

私の入学した大学はSUNY ( State University of New York ) システムというプログラムに加盟しているので、州内に50校ほどあるニューヨーク州立大学の各校と同じように学校運営が行われています。アメリカの大学の学期制は1年を3つにわける「セメスター」と4つにわける「クォーター」がありますが、SUNYシステムはセメスターでした。そして授業料は、12単位まで州の住人は2000ドル、州外の生徒は4000ドル程度です。

学期が始まるの前には、セメスター毎に自分が受ける授業を選択し学校に登録する必要があります。これがレジストレーションです。大学は、これからはじまるセメスターで開かれる講座一覧を生徒に配布します。生徒はこの一覧と各授業の解説と教授の名前を見ながら、自分の授業を登録するのです。人気のある講座は、倍率も高いので、早めにレジストレーションを行わなければなりません。

私の目標はニューヨーク州立大学を卒業することではなく、ここをステップとしてもっとレベルの高い大学へトランスファーすることです。だから、ここでなんとかCを取って卒業出来ればOKというわけではないのです。日本でドルトンスクールの先生に指導された通りニューヨーク州立大の校長先生の推薦を貰わなくてはならないという目的があります。そのためには、この大学で取得する授業の成績の平均をA-以上にすることが必要になります。

私は、初めての学期ということもあり無理をせずまずは12単位(4講座)の取得をしようと決めました。語学が完璧ではない状況で、いい成績を取るためには得意科目から攻めなくてはなりません。そこでまずはMath101、Biology 101、Computer 101、ちょっとリスキーなBusiness101を選びました。そして語学学校2時間を受講することに。数学は英語がわからなくても数式を解けばいい。生物はちょっと大変そうだが体の部位の名前や生物の基本的知識を英語で覚えるのは面白そうだ。コンピュータはきっとこれから必要になるだろう(当時はWindowsもなくDOSのプログラミングを勉強した)。語学学校は受けないといけないので仕方がない。あと、体育を1単位とった。週に1時間テニスをすればよい。これでちょうど12単位となる。

SUNYの場合、自分の学部は大まかに決めておくのですが、学位取得に必要な講座が決まっているのでそれを自由に選択すればよいシステムでした。例えば、頑張って1セメスターで40単位とって早く卒業することも可能です。逆に1セメスター3単位(パートタイム)とり、10年くらいかけて卒業する人もいます。公立大学なので、時間と予算によって様々な機会を生徒に与えてくれるのです。だから途中で学部を変更することも可能です。私はビジネス学部を専攻し、最終的にはビジネスの学位を取得したいと考えていたのですが、今の時点で絞り込むことはせず別の学部でも必要になる講座を取ることにしました。これらをリベラルアーツ(必修科目)のクラスと呼びます。当然リベラルアーツより専門科目の方が難しい内容になるため、ほとんどの生徒は初めの1年はまずリベラルアーツをとるようです。

選んだ講座は、電話でレジストレーションをします。これが結構厄介でした。英語で受けたい講座の番号を聞かれそれをプッシュホンで押して行くスタイルです。電話で英語が聞き辛いのでちゃんと登録されているのかが不安でした。今ならネットでちょいちょいと済むことですが、これがまだインターネットが普及する前の最新システムでした。

さて、いよいよはじまる講義はどんなことになるのやら....

88/01/14
2017.01.10 Rev.


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11. 日本人学生達 [ニューヨーク州立大学]

私が通うことになったニューヨーク州立大学には、8人の日本人がいて、さらに私と同時期に5人が入学してき留学ました。合計13人もの日本人が小さな大学にいるというわけです。

これには驚きましたが、西海岸の大学に入学した河合塾留学予備校の仲間と電話で話をするとさらに驚かされました。西海岸の大学には数百人規模の日本人が各学校にいるという。さらにカンザス州の田舎にいった友人・タカに聞くと、東京から飛行機を4回乗り継いで到着した人口1000人程の街にある大学にも数人の日本人がいるというのです。ノースカロライナの森の中にある大学に入学した友人・関田も日本人が大量にいるという連絡をくれました。ということは、アメリカには相当数の日本人留学生がいることになります。
それに比べると、比較的都会に近い大学に日本人が10人強というのはまだいいほうなのだろうか。

私の留学の目的は、きちんとした知識を身につけ目標となる職業に就くことなので、日本人と徒党を組むつもりは毛頭なかったのです。だからできるだけ日本人が少ないとおもわれた大学に入学したのでした。私は挨拶程度で積極的に日本人コミュニティには加わらないようにしました。

でも、小さい学校なのでいろいろと人柄が見えて来ます。私が入学した時に出会った日本人を何人か紹介してみようと思います。

山崎氏は、実はこの学校の生徒ではない。彼は大阪出身で高校卒業後ニューヨーク州立大に入学した。非常に勉強熱心で短期間で2年制の単位を取得してしまった。そして、PACE Universityにトランスファー(編入)し、今はPACEの3年生だ。卒業までは長くてあと1年。実家は花屋さんを営んでおり、きさくで冗談を言う先輩。彼にはアジア系アメリカ人の彼女がいて、そのおかげで英語はとても流暢だし、スラングも相当知っている。酒と釣りを愛する人で時々それに飲まれてしまうという愛すべきキャラクターでもある。彼女の家の関係で彼は編入した後も、この街に住んでいた。だから時々自分の母校のカフェに現れた。彼には、アメリカに来てわからないことを沢山教えてもらった。そして今も交流がある。

松崎氏は、1年前にこの学校にやってきた。実は大阪の有名大学を卒業しているのだが、理由があってこの学校で勉強していた。彼の実家は大阪で大きな宝石店を営んでいた。ここロックランド郡内には、ユダヤ人が住む町があり、そのユダヤ人のおおくはマンハッタンで宝石商をしている。松崎氏は、アメリカの宝石業界を視察する意味でこの学校に所属していたのだ。大柄で声が大きく、いかにも大阪出身の人懐っこいキャラ。日本人との付き合いの悪い私でも、ときどき食事に誘ってくれた心優しい人でもある。

目白氏は、松崎氏と同じ時期にやってきた。彼の実家は東京で宝石の加工業を行っていた。よって、松崎氏と同じルートと目的でこの学校に通っている。目白氏と松崎氏の実家は仕事の関係があるようで基本的にこの2人は兄弟のように行動を共にしていた。目白氏はテニスが大変うまく、ひとりでテニスコートに行って、知らないアメリカ人に試合を挑んでいた。そしてテニスを通じて沢山の友達を作っていた。

鈴木さんは、当時40くらいのおばさんで、子供を連れて入学してきた。彼女は、若い頃アメリカで暮らしていたそうだが、その後日本に帰り結婚。しかし幸せな結婚生活も長く続かず離婚して、子供とともにニューヨークに来たそうだ。どんな目的があるのか最後までわからなかったが、子供は地元の学校に通わせ、彼女は授業を受けていた。おばさん特有の群衆意識があり、やたらと日本人の学生を手なずけてコミュニティを作ろうとしていた。そして、週末になると日本人で集まり、悪口やうわさ話で盛り上がっていたようだ。集まるのはフルタイムの語学学校生徒達で、いつも日本語で群れているので何年経っても語学学校を抜けることは出来なかった人たちだ。私は、彼らとは距離を置き、学校で見かけると挨拶はするよう心がけた。

箱山は、私と同じ歳で東北出身のきさくな男だった。ずいぶん昔から学校に通っていたようだが、ずっと語学学校の一番下のクラスに所属していた。卒業の見込みはまずないといってもよかった。ただ面倒見がとても良く、困っている人がいると必ず助けてあげていた。ボロボロの車に乗っていて、誰でもかまわずバスを待っている人を乗せてあげるような気のいい男だ。彼は、なんでこの学校にいるのか聞いたところ、結構驚かされる話をはじめた。実は、彼は元レスリングの選手で将来はオリンピックの選手として有望だったらしい。しかし、今でいうところのドーピング検査にひっかかり選手生命を終えたそうだ。そしてそのとき接種した薬がもとで様々な障害を抱えていた。見た目にはそんなことは全く感じさせない明るい男だった。彼は、日本の学校を追われ、仕事にも就けず途方に暮れていたとき、ニューヨークのレストランで働かないかという誘いを受ける。そして渡米するのだが、雇われたレストランはとんでもない劣悪な環境で、ビザもなく不法就労を強いられた。パスポートもレストランに没収されコピーしか持っていなかったのだが、そのレストランから逃亡し、当時ロックランドの街にひとつだけあった日本食レストランに匿わられていたのだ。

江藤は、私と同時に大学に入学した背の高い物静かな少年だった。彼も東北出身で、箱山とは出身地が近いということで仲が良かった。彼と私は同時期に入学して、英語の学力も学部も一緒だったので、よくクラスが一緒になった。ただ、彼も目的を持って勉強をしているので、意味もなく一緒にいることはなかった。江藤と私は適度な距離を保ちながら良い関係を築いていた。

その他にも、ポルシェを買って学校に一度もこない人や、学校に10年近く通っている元OLや、有名人の子弟など個性的な日本人がいました。そして私が在籍していた間にも沢山の日本人がやってきて去っていったのです。

アメリカの大学の日本人はどこも似たような行動パターンのようです。
1)目的意識を持ち、きちんと卒業していく学生。概して日本人とはどっぷりつきあわない。
2)目的がなく、日本の大学に入れなかったので、留学してきた学生。基本的に日本人とコミュニティを築く。
3)30代目前で、日本でもぱっとせず語学力を身につけたいため渡米する女性。
4)日本で家庭が崩壊したり、法を犯したりして、生きる道をアメリカに求めた人々

皆それぞれの生き方があるので、肯定も否定もしませんが、目的意識を持って留学したはずの学生でも4年制大学を卒業できるのは、20%くらいです。よって、留学を成功させるのは大変リスクが高いといわざるをえません。

これから5年で、さらに面白い日本人学生と出会うことになりますが、これはまた追って紹介しようと思います。


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10. 学力試験を受ける [ニューヨーク州立大学]

大学に入学するには、いくつかの関門がありますが、ニューヨーク州立大学に入学するには以下のようなハードルがありましたた。

<書類での出願@ Tokyo>
大学に、学校案内と出願書 (Application Form) を送ってもらうべく手紙を書き、数週間後に書類を入手します。私は、かなり沢山の大学に依頼しました。とはいっても、適当に送るのではなく、送ってもらった大学の説明書をよく読み、自分の行きたい場所や行きたい学部などある程度絞り込みました。アメリカには認可されている大学だけでも2万校あるといわれています。私は、東海岸(ボストン〜ワシントンDC)のビジネスやエンターテイメント系学部のある4年制大学と2年制大学約20校から書類を送ってもらい、カウンセラーと相談して5校に出願しました。このとき必要になるのは、出願書類、TOEFLのスコア(通常550点以上)、高校の成績、自分で書いたエッセイ、推薦状、留学資金照明のための銀行の残高証明などです。

この出願に関しては、今後の留学の出発点になるので、十分考え、様々な経験者や両親、先生、カウンセラーと相談をすべきです。私の場合、出願したすべてから合格通知を受け取ることができました。

<大学での学力試験>
アメリカの大学に入学しても、誰もが正規の生徒として認められる訳ではありません。アメリカ人も含め大学では入学後に基礎学力試験を受ける必要があります。東海岸の州立大学は英語と数学を受けることが多いようです。ここで規定のスコアを取れなかった生徒は、付属の語学学校や数学の予備学校に通うことになります。おおくの日本人留学生はここではじかれ正規の生徒ではなく大学付属の語学学校に入学することになる現実があります。大学にとって語学学校は重要な収入源。だから大量の留学生を受け入れるのです。

私の場合、ニューヨークに来てやっとおちついた6日目にこのテストを受けました。数学はおそらく満点だったと思います。分数の計算など日本では小学校レベルのテストでした。英語は結構難しく感じましたが、この程度の語学力がないと授業にはついて行けないだろうと思います。

実は、私はここで大きなミスを犯していました。というか自分の能力を過信しすぎていたようです。翌日のテスト結果は数学はパスしたものの、英語は語学学校行きとなってしまったのです。これをしないために"日本で十分勉強をしてきたはずだったのになんていうことだ!"自分の実力のなさにがっかりした、と同時に将来のビジョンが崩れていきました。

早速、学校付属の語学学校へ行き、オリエンテーションを受けました。そこには、いままでキャンパスでは見かけなかった留学生が沢山いました。日本人も結構いるようでした。"あぁ、このままだといったいいつ卒業できるのかわからない。"とかなり落ち込んでいると、私の後ろの席に日本人らしい青年がひとりで座っていました。「あのー、日本人ですか?」相手は「?」。彼は香港からやってきたフィリップという男で、私たちはそれから一緒に2年間授業を受けることになりました。フィリップは私よりは英語ができるようで、オリエンテーションの説明で私が理解出来ない部分は丁寧に説明してくれました。そして授業をとるためのレジストレーションを手伝ってくれたのでした。

実は、よく説明を聞いてみると、私は英語のテストはぎりぎりのところでパスしなかったようでした。私が入るのは6レベルある語学学校のクラスの中で一番上でした。フィリップも同じクラスでした。このクラスは、語学学校に通うのは週2時間で、残りは正規の学生と同じ授業を受講する権利が与えられていたのです。これは嬉しかったです。そして、次回の学力テスト(3ヶ月後)で、パスすれば正規の生徒になれることがわかりました。もし、次回の試験で成績が悪いと週2時間の語学学校の授業は受けなければならない。週2時間の時間的ロスと語学学校の授業料の金銭的ロスは痛いですが、フルタイムで語学学校に入ってしまったらロスはもっと大きかったです。とにかく1セメスターはがんばって、次のセメスター前にある語学テストをパスすればなんとかロスは挽回できるだろうと思いました。

フィリップは、将来カメラマンになりたいそうで、この学校で2年勉強した後はマンハッタンの芸術大学に編入するという野望を持っていました。話も楽しいし気も合いそうなので、オリエンテーションが終わっても大学のカフェで暫く話をしました。

1988/01/12
2006/03/07 Rev.


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